100 大阪の「お粥さん」   

2023.1.25

 


 

 宇野浩二の随筆「大阪」は、さすがに食い物については特に詳しく語っていて、読んでいて倦むことを知らない。こんなに細かい知識は、他の文章ではそうそう手に入るものではないし、この文章も今では「宇野浩二全集」以外では読むことができないようなので、長くなるのを承知で紹介したい。(今回は、漢字は新字に改めて引用する。)

 「色色の食い道楽──大阪人の食意地のこと」と題した文章は、次のように始まる。

 俗に『京の着だふれ、大阪の食ひだふれ』といふが、これは京都人が着物のために財産をつぶすとか大阪人が食物のために財産を傾けるとか云ふ意味ではない、また、俗に『京の着道楽、大阪の食道楽』と云ふ意味でもない。これから述べようと思ふのは、さういふ言葉に似て非なるもの、さういふ言葉に似て近いもの──主として、大阪人の食意地(くひいぢ)といふやうな題目で、思ひ浮かぶままに書いてみよう。──

 このことからして新鮮だ。「食いだおれ」という言葉はよく聞くのだが、その意味をちゃんと考えたことはなかった。あったとしても、宇野の否定している「大阪人が食物のために財産を傾ける」あるいは傾けかねないほど、食物に金をかける、というような意味で考えていたと思う。しかし、宇野は「食意地」という言葉を持ち出す。それが、この後を読んでいくと、実にぴったりなネーミングなのだ。

 金をかけるのではなくて、安くて旨いものをとことん追究するという情熱、といったらいいだろうか。

 大阪人は『京の着道楽』の例として、京都の人は滅多に豆さん(大阪人──殊に大阪辺の女は、どういふ訳か、豆と芋と粥に限つて「さん」を附ける。)を食べない。それは、豆を食べるには一つづつ皿から口に運ばねばならぬ、そのために着物の袖口が痛むから、と云ふのである。併(しか)し、これは京都人が着物を大事にするといふ譬で、却つてこんな事を云ふ大阪人の方が、豆さんやお芋さんやお粥さんを好んで食べてゐることを白状してゐるのかも知れない。何故なら、豆の事は暫らく傍(そば)において、生粋の大阪人は毎朝、東京人及び東京に住む人が毎朝かならず味噌汁を常食にするやうに、朝飯に粥を食べ、冬になるとその粥に芋を入れる習慣があるからだ。併し、この朝飯に粥を食べるのは、大阪ばかりでなく、私の知る限り、河内、和泉、大和(或ひは山城)の人たちは大抵朝飯に粥を食べてゐる。物識(ものしり)の話に依ると、大阪の粥と、河内の粥と、和泉の粥と、大和の粥は、同じ粥でも、それぞれ特徴があると云ふ。それは本当で、私は、和泉の粥だけは、和泉の岸和田は母の里でありながら、知らないが、大阪は勿論、河内の粥も、大和の粥も、一通り食べたが、何処の国の粥も茶粥(番茶を煮出した汁で炊いた粥)である点では一致してゐるやうであるが、大阪のは普通で、河内の粥が一番まづく、大和の粥は一番特徴がある。それは大和の粥だけが『大和粥』といふ名を持つてゐることでも分る。
 『大和粥』の炊き方は、先づ大きな釜に水を殆(ほとん)ど一ぱい入れ、その中に、番茶を入れた布切の袋を入れて煮る、程よく茶の味が出た時分に茶袋を取出すと共に成るべく少量の米を入れる、その米は、ざつと研いだのにかぎる、つまり糠が残ってゐる方がいいので、釜の蓋を明けたまま、番をしてゐる者が、始終杓子で掻き交ぜながら、根気よく炊く、さうして「顔がうつる」(水七分米三分の割だから)と云はれる『大和粥』が出来あがるのである。この粥を、大和の在所では、朝たべ、昼前たべ、昼たべ、御八(おやつ)にたべ、晩たべする。これは普通の粥より水分が多いから腹にもたれないからでもあらう。つまり、『大和粥』といふ名が特にあるのは、粥そのものが普通のと変わつてゐる上に、このやうに粥を不断に食べる習慣があるからであらう。──

 この後も、粥をめぐるエピソードが続くわけだが、「粥」でこれほど多くのことが語られるということに驚いてしまう。

 横浜の下町に育ったぼくには、粥というものは、病気のときに食べる「お粥」か、「おじや」以外には知らなかった。(「おもゆ」とか「くずゆ」というものも病気のとき食べた、もしくは食べさせられた。)つまりは、お粥と病気は切っても切り離せないもので、したがって旨いものであるはずもなく、毎度の食事にはもちろん食べたことなぞない。

 大人になってから、鍋を食べたあとの「雑炊」というものがあるのを知ったが、これとても、旨いことは旨いが、汚らしい感じがして実はあんまり好きではないのだ。

 もっと大人になってからは、中華街で供される「中華粥」なるものがあることを知ったが、これも数回食べたことはあるが、常食にはほど遠いし、第一、家では作れない。

 それが大阪では、常食で、しかも、大阪と、河内と、和泉とでは、粥の味が違うというのだから驚く。それを「一通り全部食べた」という宇野という人にも驚くが、粥にそんなにも「地域性」があるものだろうか。あるものだろうか、なんて間抜けな感想を述べてもしょうがない。あると言ってるのだから、あるのであろう。

 「大和粥」の説明にいたっては、おもわず笑ってしまう。宇野という人は、どうも、物事を克明に説明しないと気が済まない性格らしく、自分が岸和田に住んでいたころの長屋の説明をするのに、どうも言葉では説明しきれないといって、図を描いているくらいだ。「大和粥」の作り方をそんなに詳しく説明する必要があるとも思えないのだが、知っていることはとことん説明しないと気が済まないのだ。

 でも、この説明のおかげで、今でも誰でもが「大和粥」を作ることができる。しかし、この「大和粥」なるものは、どうみても、旨そうではなくて、宇野も旨いとかまずいとか言わずに「一番特徴がある」としか言わない。きっとまずいのだろう。「顔がうつる」なんて、まるでスープで、「腹にもたれないから」一日中食べることができるのは確かだろうけど、一日中食べなきゃ腹がいっぱいにならないのだろう。大和の貧しさを意味するとしか思えないのだが、そんなことを言ったら大和の人に怒られるだろうか。

 まあ、今でも、奈良の食べ物は旨くないというのは、ぼくにとっては何度も経験したことで、それなら、「大和粥」のほうがマシだろうと思ったりもする。

 今までぼくが食べてまずかったもののベストスリーに、奈良が2件はいっている。一つは、大学時代に長谷寺の近くの食堂で食べた「ラーメン」と、20年ほど前に法隆寺に行った帰り、大和郡山駅の近くの食堂で食べた「冷やしうどん」である。(参照「奈良はまずい」)この二つは、この世のものとも思えぬまずさであった。「大和粥」を知らなかったのはうかつだった。

 ぼくは昔からあまり食べ物については興味がなく、どちらかといえば、食べずにすませたらどんなに楽だろうかなんて考える方だったから、今でも日々の生活で、旨いものを追究する姿勢はほとんどないのだが、そんなぼくからみると、大阪人の「食意地」は、途方もないものに見えるのだ。

 宇野は、この後、「食通」についての考察をしてから、大阪の蒲鉾についての説明に入っていくのだが、それはまた次回のお楽しみ。

 宇野浩二に乗っかってると、どこまでも、いつまでも、書ける。

 


 

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