50 子どもは走る──アッバス・キアロスタミ『友だちのうちはどこ?』

 

2019.2.7

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 子どもだけが持っている「仁義」がある。それは絶対的なもので、大人のように「諸般の事情」によって破られるものではない。どこまでも純粋で、どこまでも忠実で、そしてどんな「事情」をも突破してしまう。

 大人は子どもの言葉に耳を傾けない。子どもはそれに絶望しながらも、訴えつづける。何度でも何度でも、訴えつづける。それでも大人は耳を持たない。子どもはただ走るしかない。ただ走って、「仁義」を果たそうとする。その結果がどうであれ、「走る」ことに意味がある。

 アッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』は、学校で隣に座っている友だちのノートを間違えて持ってきてしまった子どもが、それを友だちのうちに返しにいく、というだけの話である。友だちは、「ノートに宿題をやってこなかった」ことで先生に叱られ、こんど同じことをしたら退学だと言われている。それなのに、男の子は、その友だちのノートを間違えて自分のカバンに入れて帰ってきてしまったのだ。もし、今日中にそのノートを友だちに返せなかったら、友だちは退学になってしまう。それはぼくのせいだ。だから、どうしても今日中に友だちに返さなきゃならない。そう思うのだ。

 けれども、母親は厳しく、宿題をしろという。友だちのノートを間違えて持ってきちゃったから返しにいきたいと言っても、遊びにいく口実だと思って許してくれない。そのうえ、さまざまな雑用を言いつけてくる。

 とうとう男の子は、家を抜け出し、友だちにうちへ向かう。けれども遠い町のどこに友だちのうちがあるのか知らない。知らないけれど、たずねていく。丘を越えて走る。出会う大人たちは、総じて無関心だ。自分のことで精一杯。一緒についてきてくれたのはオジイサンだったけれど、そのオジイサンは高齢のため、はやく歩けない。かえって足手まといになってしまう。

 はたして男の子は、無事にノートを友だちに返すことができるのだろうか、というサスペンスが、見るものの心を惹きつける。

 結果は言わぬが花だが、とにかく、出てくる人間の表情がいい。全部、素人だというのだが、それがまたドキュメンタリーのような感触を与える。子どもの表情も、いい。いいといっても、この映画に出てくる子どもは、誰一人として笑っていない。みんなどこかおびえたような顔をしている。先生の言葉にビクビクしている。親の言葉にもおびえている。

 子どもはどうしようもなく不安なのだ。大人は、子どもをしつけようとしか考えていない。世間に出てこまらないように、あるいは、よい稼ぎができるように、礼儀を身に付けさせなければならないと思い込んでいる。だから、宿題を言われたとおりノートにやってこないことは許されないのだ。同じことを三回言われて守れない子どもは退学なのだ。

 そういう大人の勝手な「教育」の中で、それでも、子どもは子どもの領分で、「仁義」を通そうとする。その一途さに涙が出る。

 いくら訴えても、耳を貸してくれない大人の姿を見ているうちに、最近の野田でおきた両親による子どもの虐待事件のことがいやおうなく思い浮かんだ。

 いつの時代でも、子どもは犠牲者だ。暴力の犠牲になることもあれば、過剰な愛の犠牲になることもある。大人の犠牲にならずに子ども時代をまっとうできるなんて至難の業だ。それでも、子どもは走る。子どもは生きる。その姿の尊さを、この映画は見事に、心にしみ入るように教えてくれる。

 


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