38 「パラパラ」が大事

 

2018.6.27

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 2010年ごろ、ぼくは狂ったように本の「自炊」に熱中し、およそ1年かけて約3000冊の本を電子書籍にした。一時的に本棚には、かなりの空間ができたが、あっという間に、そのあいた空間を本が占拠しはじめ、今では、またぞろ収拾がつかなくなっている。

 といって、もういちど、狂ったように自炊に励む気力も体力もさらさらなくて、かといって、古書店にさっさと売り払う勇気もなく、それどころか、読みたい本は増えるばかりで、昨今の古書市場の低迷もあいまって、むしろ「買ってしまう」ことの方が多くなった。

 そしてついに、予想していたこととはいえ、「自炊した本を買い戻す」という反時代的事態まで発生したのである。

 「自炊」というのは、今さら説明するまでもないとは思うが、本をバラバラに分解して、専用のスキャナーで読み取る(電子化する=PDFファイル化する)ことで、スキャナーで読み取ったあとのバラバラになった本は、資源ゴミに出してしまうという、悪逆非道な所業である。

 だから、一端自炊した本は、「電子書籍」として、ハードディスクには残るが、実体は残らない。だから、本棚も空く、というわけだ。

 自炊した「電子書籍」は、パソコン画面でも読めるが、便利なのはiPadなどの端末で、これで読むと、文庫本などは格段に字が大きいし、iPadに何百冊でも入るから、いちいち本棚から探さなくていいし、さらには、画面が発光するわけだから暗いところでも電気なしで読める、などの利点がたくさんある。

 長年読み通すことができなかったプルーストの『失われた時を求めて』全巻を、めでたく読み切ることができたのも、こうした「電子書籍化」のおかげだった。

 ところが、最近、岩野泡鳴の小説を読みはじめ、引用やら感想やらを書くということをやっているうちに、あれ、この人、どこに出てきたんだっけ? とか、このエピソードはどこからどうつながっているんだっけ? などと疑問がわくたんびに、iPadでページをめくるという動作がどうにもめんどくさくなってきた。

 これが紙の本なら、パラパラとページをめくって、おめあての場所にいきつくことは容易だ。パラパラとページをめくると、瞬間的に、それぞれのページの内容が案外分かるもので、実に効率的なのだ。極端なことをいうと、一度読んだ小説なら、最初から最後のページまでパラパラやりながら見るだけで、その小説のだいたいの粗筋が分かる。そんなことは、昔から分かり切ったことだったはずなのに、電子書籍を使っているうちに、あらためて紙の本の便利さに気づいたというわけである。

 もちろん、電子書籍のビューワでも、いろいろな工夫があり、「パラパラめくる」ようなしかけもあるが、それは、あくまで「紙の本を読んでいるような感じ」を演出するだけのもので、ちっとも実用的ではない。

 そんなわけで、自炊して元の本がない『岩野泡鳴五部作上・下』二巻を、古書店から買い戻したのである。やっぱり、紙の本を読んでいるほうが、「読書している」という実感があるなあ、なんて思ったりする日々で、いつまでたっても落ち着かないことである。

 


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