37 地味弁

 

2018.4.7

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 インスタ映えという言葉がいまだにはやっているらしいが、テレビで、「ノンインスタ映え」とかで、「地味弁」というのがあるということをやっていた。

 オシャレなお弁当の写真が溢れているので、地味なお弁当の写真がかえって目立つのだそうで、それじゃ、ちっとも「ノンインスタ映え」じゃなくて、やっぱり「インスタ映え」じゃないかと、ちょっとむかついた。

 要するに、「インスタ映え」というのは、インスタグラムで、「お!」と思って、思わず「いいね」してしまう、ということで、何のことはない「目立つ」ということの同義語だ。目立つためには、周囲と違っていることが肝心で、周りがオシャレなものばっかりなら、地味でダサいものが目立つのも道理だ。

 ということは、今は、「地味弁」が目立つけど、今度は「地味弁」が溢れれば、また「キャラ弁」みたいな派手弁がはやるわけで、これはもう切りがない。かといって、切りがないほど、続くかというと、早晩インスタグラム自体が飽きられるのは目に見えている。というか、インスタグラムは続くにしても、「インスタ映え」に飽きるということかもしれない。

 しかし、「インスタ映え」するために、わざわざ地味な弁当を作るというのも、どうなんだろうなあと思ってしまう。

 こんなところで、昔話を持ち出すのも野暮な話だが、中高生のころは、ぼくは弁当にまったく興味がなかった。楽しみですらなかった。親にはまことに申し訳ないことだが、そのころから、どうも食べることには興味があまりなかったみたいで、どんな弁当だったかも、あまり覚えていない。とにかく、早く食べる、ことだけに集中していたような気がする。

 ぼくが通っていた学校は、とにかく、ヘンテコな校則みたいなのが多くて、たとえば、休み時間に教室にいるということが原則禁じられていた。昼休みとて同じことで、弁当を食べたら校庭にでなくてはならなかった。出て何をしろというわけではないのだが、とにかく、教室でダラダラしていちゃいけなかったのだ。

 で、ぼくは、そういう校則に反発するどころか、それを極端に守って、できるだけ早く弁当を食べて、誰よりも早く校庭に飛び出すことに全力を傾けた。なぜそういうことになったのか分からない。別に、とりわけ、校庭で何がしたいということもなかった。はやく校庭に出たからといって、先生が褒めてくれるわけでもなかった。ただ、誰もいない校庭に真っ先に飛び出していく感じは、かなりいい感じだったことはかすかに覚えている。

 そんなに校庭に出ろ出ろとうるさく言うのなら、出てやろうじゃないか、誰よりも早く出てやろうじゃないか、ということだったのだろうか。そんな屈折した反抗心があったとも思えないのだが、ひねくれていたことは確かだから、そんなことなのかもしれない。

 いずれにしても、とにかく、やみくもに弁当を食べていたから、それがどんな弁当だったかは覚えていないにも当然だが、「地味弁」だったことは間違いない。というか、当時は、きれいな弁当を作ろうなんて親はそうそういなかったはずだ。

 そもそも弁当は隠して食べるものだったし、それを写真に撮って公表しようなどという人間は、どこを探してもいるはずもなかった。「インスタ映え」どころか、単なる「見栄え」すら、求めようもなかったに違いない。

 


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