30 「この1年」のつもりが「時間のはやさについて」

 

2017.12.30

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 「100のエッセイ」を書いていたころ、暮れになると、一年を振り返って何か書いていた。その「100のエッセイ」も10期1000編が完結してから、いちおう「木洩れ日抄」として続けてはいるが、最近ではとんと書くこともなく10月以来ほったらかしになってしまっている。

 やはり、何かに区切りがついてしまうと、気が抜けるということだろうか。

 まあ、そうはいっても、「木洩れ日抄」はオシマイです、という気にもなれないから、久しぶりに、年末所感でも書いてみることにする。

 月並みなことだが、一年がはやいということに尽きる。つい先日、お正月を祝ったような気がする。こんなに月日の経つのがはやいのは、ぼくが年をとったせいかと思っていたら、案外そうでもなくて、もっと若い人たちも、はやいはやいと言っている。

 ということは、世界全体の時間の速度があがっているということだろうか。これも月並みなことだが、テクノロジーの進化が時間をはやめているということだろうか。

 それはおおいにありうることだ。例えば、「人に会う」ということが、ものすごく簡単になった。メールだのSNSだのを使えば、あっという間に連絡がとれて、あっという間に「会える」。だから、あっという間に、別れてしまうことになる。

 昔話は退屈だし、昔はああだったこうだったという年寄りは嫌だけど、それでも、ぼくが中学生の頃には、まだ「家電」がない家があって、そういうヤツと連絡をとろうとすると、そいつの家の近所の家に電話をかけて「呼び出し」てもらわなければならなかった、なんて話をついしたくなる。

 学校の住所録には、電話の欄に「呼び出し」と書いてあるヤツがたくさんいた。我が家は、商売をやっていた関係上、貧乏ながら電話はちゃんとあったけれど、サラリーマン家庭では「呼び出し」は珍しくなかった。

 そのうち電話が一家に一台という時代になったが、それでも、一台しかないわけで、しかもコード付きだったから、自分の部屋に持ち込むなんてことはできず、例えば「彼女」との電話でのやりとりも、親の目や耳を気にしながらするしかなかった。

 ただ、ぼくが大学生の頃は、「市内通話」は、何時間話しても10円だったか、とにかく定額で、そのため、大学時代に付き合っていた彼女(今も妻として付き合っています。念のため。)と毎日1時間以上も電話で話していたものだ。ある意味、「夢のような」話である。

 けれども、携帯がなかったから、待ち合わせ時間を間違えて、1時間以上遅れちゃうとわかっていても、待ち合わせの駅にいる彼女に連絡する手段がなかった。同じ駅にいながら、柱の後ろと前にいたために気づかずに何十分も過ぎたなんてこともあったような気がする。

 そんな悠長なことをやっていたのだから、何かをするにしても手間がかかり、その分、イライラしたり、待ちくたびれたりして、時間が長く感じられることが多かった。

 つまりは、「待つ」時間が、昔は長かった、ということなのかもしれない。

 「もういくつ寝るとお正月」なんていう歌も、最近ではとんと聞こえてこなくなったが、「指折り数えて待つ」ほど楽しいお正月というものも、老人には、当然ながら、もう、ない。子どもにはまだあるのだろうか。その前の、ハロウィーンだのクリスマスだので、楽しい気持ちは消耗してしまっているのではなかろうか。

 一年を振り返るつもりが、結局、無駄話・昔話になってしまった。まあ、それもよし。来年は、退屈だ、つまらない、ひっこめ、と言われようと、年寄りの繰り言をダラダラ書いていくとしようか。

 皆さま、どうぞ、よいお年をお迎えください。

 


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