28 『わろてんか』──不安なはじまり

 

2017.10.3

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 あまりに『ひよっこ』が素晴らしかったので、比較するのも酷かもしれないし、まだ始まってたったの2回しか見てないんだから、ああだこうだというのもどうかと思うのだが、それにしても、今度の『わろてんか』は、どうなってんだ? って感じだ。

 まあ、『ひよっこ』にしても、その第1回の冒頭のナレーションがぼくの好きじゃなかった増田明美だったということでショックを受けたのだったが、その後、なぜナレーションが増田明美だったのかがよくわかり、終わった今では、増田明美が好きになっちゃたんだから、今後の展開次第では、『わろてんか』絶賛に変わるかもしれないけど、それにしても、書かずにいられない。

 どこがダメなのかっていうと、いろいろあって書き切れないけど、とにかく、冒頭のワンシーンで、びっくりしてしまった。

 屋根の上に、一羽の小鳥がとまっていて、それが町に向かって飛んでいくというシーンなのだが、それのどこがイケナイのかというと、その鳥が、「白文鳥」だったことだ。文鳥は、日本の野鳥ではなく、東南アジアから輸入され江戸時代以来飼育されてきたいわばペットである。白文鳥は、調べたところ、江戸時代に名古屋で産出されたとのことだが、いずれにしても、飼い鳥である。漱石にも『文鳥』と題する名随筆があり、ぼくが子どもの頃も、手乗り文鳥を飼ったことがある。手乗り文鳥というのは、最初からそういう種類がいるのではなく、手に乗るように訓練するわけである。

 その文鳥が大阪(訂正:てんの家は京都でした)の家の屋根に止まっていたからといって、別に目くじら立てることも実はない。籠から逃げて野生化した文鳥もいたからで、東京や大阪に多かったというから、「大阪」(こうなると「京都」)を強調するために、わざわざ文鳥にしたのかもしれない。

 けれども、どうも、そこまでの考証を経てあそこに文鳥を止まらせたということじゃなくて、鳥ならなんでもいいやってことで、すぐに手に入る文鳥を使ったということじゃないのかと邪推したくなるのだ。屋根に止まって野鳥となると、まずはスズメだけど、スズメは案外撮るのが大変だ。しかも、思い通りに飛んでくれない。文鳥のほうが手軽には違いない。

 ぼくなんかは、文鳥が止まっていて、それが飛んでいったので、主人公の女の子が、てっきり文鳥を飼っていてそれが逃げたということかと思って、その後の展開を予想してしまったのだが、見事にはずれた。(あとで、そういう話が出てくるのかもしれない。)

 その後、こんどは、主人公の「てん」が、笑い上戸だという話になって、何を見てもおかしがって笑ってしまう癖があるというこのドラマの核心的な話になる。そのエピソードとしてチョウチョが登場する。薬種問屋を営む父親が、ドイツの製薬会社の社長だかと会談するためにパーティを開くのだが、その対面の席に、「てん」も同席したところ、その部屋に黄色いチョウチョが入ってくる。このチョウチョは明らかに紙(あるいはプラ)で作ったもので、まあ、それはそれでいいとしても(本物のチョウを思い通りになんて飛ばせない)、それがモンキチョウなのか、キチョウなのか分からない実にいい加減な代物で、そのチョウチョが部屋の中をヒラヒラと飛んで、ドイツ人の社長だかのはげ上がった額の片側にとまる。それを見た「てん」はおかしくてたまらない。あげくのはてに、もう一匹の同じ黄色いチョウがとんできて、額のもう一方の側に止まってしまう。それでもう我慢ができなくなった「てん」は大笑いして、そのあげく、テーブルの上の食器なんかをみんなひっくり返してしまい、ドイツ人は怒って帰ってしまうという展開となった。

 いろいろな意味で呆れた。そもそも、モンキチョウなのか、キチョウなのか分からないチョウ(ごく普通にいる日本のチョウで黄色いのはその2種類ぐらい)が、部屋の中に二匹も入ってきて、しかも、人間のおでこにとまるなんてことはありえない。ありえない、などと断言するほど詳しくはないが、すくなくとも、例えば野原でモンキチョウを見つけても、その写真を撮ることはかなりムズカシイ。花にさえ、なかなかうまい具合にとまってくれないからだ。

 まして、人間のいるリビングルームに迷い込むなんてことはまずない。もちろん絶対にないということはないが、たまたま入り込んでしまっても、まず人間の頭にはとまらない。それどころか明るい方へむかって飛び、外へ逃げようとする。しかし、これも、絶対にとまらないとは断言できない。

 しかし、文鳥にせよ、黄色いチョウにせよ、どうして、そんな「絶対にないとはいえないが、普通じゃない」ことをあえてするのかという意図がわからない。

 文鳥の意味は依然として不明だが、チョウを出してきた意図は明らかだ。つまり「てん」が「笑ってしまう」状況を作りたかったからだ。それなら、チョウがドイツ人の禿げた額にとまる、それも二匹もそろってリボンみたいにとまるなんて、ほとんどありえないような設定をどうして選ぶのか。ほかにいくらでもあるじゃないか。

 「そんなのありえない!」って思わせない設定で、思わず「笑ってしまう」状況設定なんて、掃いてすてるほどあると思うんだけど、わざわざそんな設定にして、それがそれほど「笑える」ことではなくて、むしろ、近くにいる人がすぐにそれに気づいて追い払うとかすれば、そんなことにはならないのに、誰も気づかず、慌てた「てん」と丁稚が、食卓のシーツを引っ張ってしまい、ぐちゃぐちゃになるなんて、無理すぎる。

 仕事人間で、「笑うこともせず」に働きづくめの父は、笑い上戸の「てん」に、「笑い禁止令」を出すのだが、これもすごく不自然。笑いを禁止する親なんているものだろうか。普通いない親だから、「てん」がとりわけ笑いにこだわる子どもとして成長するということだろうか。まあその辺が見所なのかもしれないし、この「笑い禁止令」が「てん」の原点だっていうのだから、しかたないが、なんだかわざとらしいなあ。

 この「てん」が、後の吉本興業の創業者、吉本せいだというわけだから、「笑い」がこのドラマの中心テーマであるのは当然だが、こう最初から「笑うこと」が、禁止されたり、「笑うことが好き」だということが強調されたりすると、なんだか説教くさくなってしまうんじゃないかと心配だ。

 いきなりケチばかりで恐縮だけど、ぼくは、朝ドラは、最近、「どんなにつまらなくても全部見る」ことを生きる上での「信条」としているので、おおいに期待もしているのだ。とくに、明治から大正にかけての上方の芸能の様子がどの程度リアルに再現されるのかには、とても興味がある。

 第1回にも、桂南光が出ていて、その辺も、期待できるし、まあ、楽しみにしている。

 


 

 この文章は、「わろてんか」が始まった直後に書いたものだが、その後の展開をずっと見てきて、明らかな認識の違いがあることが分かった。

 もちろん、冒頭の「文鳥」のことである。ぼくは、それをいい加減だとして批判したのだが、そんなことはまったくなかった。そもそも第1回から、そのタイトルのアニメーションで、文鳥がドラマ全体に渡る象徴的なアイテムであることが明示されていた。ぼくは、それをまったく見ていなかったわけである。

 その後の展開でも、文鳥の根付(?)が、「てん」と「藤吉」を結ぶ大事なアイテムとなっているし、寄席の名称も、「風鳥亭」で鳥関連。伝統派の大看板も「喜楽亭文鳥」だし、とにかく、「文鳥」ずくしである。

 そんなわけで、ぼくの「文鳥」に関する批判は、よく見もしないうえの勝手な憶測によったもので、完全な誤りです。お詫びして撤回したいと思います。

 

(2018.2.13記)

 


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