16 「はずかしい話」?

2017.2.5

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 前回のエッセイで、お好み焼きのことを書いたが、その中に出てきたSという友人が、話の最後にちょっともらした「オレは、お好み焼きって、こっちの方の食い物かと思ってた。」という言葉を書き漏らしたが、「こっちの方」と言いながら、手のひらを返して口のあたりに持っていったので、どうやら「二丁目」のほうの方を指すものと察したが、「え?」っと反応しただけで、「どうして?」って聞くこともなく話題が次に移ってしまった。

 で、家に帰ってから、Wikipediaで改めて「お好み焼き」を調べたら、こんな記述が目に入った。

 

お好み焼きの歴史について語られる際に、最も古い文献としてたびたび引用されるのが、池田弥三郎の「私の食物誌」に記載された一節である。本書には「昭和6〜7年(1931〜1932年)頃に銀座裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、風俗上の取り締まりで挙げられた」というエピソードが記録されており、当時のお好み焼き屋は飲食を口実として懇ろの男女に密室を提供する、どちらかと言えばいかがわしい業態であったことが読み取れる。食文化史研究家の岡田哲は、「お好み焼き」は当時の東京の花街において、座敷にしつらえた鉄板で客が自分の「好み」に焼く風流な遊戯料理として誕生したというこの証言に基づいた解釈を紹介しており、日本コナモン協会会長の熊谷真菜も自著にて同じ説を採用している。

 

 Sは、この辺の事情を知っていたのだろうかとびっくりした。ぼくは、こんなことは夢にも思わなかったが、そうしてみると、「お好み焼き」は、お世辞にも上品とはいえない食べ物だということなる。まあ、その作り方にしても、味にしても、高級料亭で供されるものとはとてもいえないことは確かである。しかし、池田弥三郎はいったいどんなことを書いているのかと気になり、『私の食物誌』を古本で買った。(アマゾンの古書で、1円だった。)そこには、wikiに書いてあったとおりの記述が確かにあった。曰く、

 

 屋台の、子ども相手の、二銭三銭五銭といったどんどん焼きが、出世して、いつしか「お好み焼き」になった。そして銀座の露地の奥などに、ちょっとした店ができた。それは昭和の初年ごろではなかったか。
 なんでも、銀座裏のお好み焼き屋が、密会所みたいになって、風俗上の取り締まりであげられたということがあったのが、昭和六、七年ごろのことで、当時大学の予科生だったわたしは、そろそろそういうところへ出入りし始める時分だったが、そんなことから、それっきり、行きそびれてしまった。ふしぎなもので、わたしはそれ以来、今までに、三回とはお好み焼き屋に行っていない。(「お好み焼き」)

 

 なるほど、そういうことか。だとすると、Sも、どこかでそんな話を聞いて、お好み焼き屋に行かなかったのかもしれない。今度聞いてみよう。

 それはそうと、この記述が正しいとすると、「お好み焼き」の発生は、関西ではなく、東京だということになる。一度きちんと調べてみたいものだ。しかし、それもさておき、冒頭の「どんどん焼き」って何だと思ったら、この文章の前に「どんどん焼き」という題の文章があって、それを読んでまたびっくり。それこそが、ぼくが前回書いた「クレープみたいに広げた生地にキャベツとか、桜エビとか、青のりとかをほんのチョッピリ振りかけてくるっと巻いて新聞紙に包んでくれた、あの紅ショウガの味しかしない、ケチくさくてまずい『お好み焼き』」とほぼ同じものだったのだ。煩瑣になるが、興味深いので、引用しておく。

 

 うどん粉に卵をいれて水でといたものを、火にかけてある鉄板の上にしいて、その上に実をのせて、また上から衣をかけて、へがしでひっくり返して焼き、ソースをかけて、新聞紙の袋に入れてくれる。もちろん、その場で食べてしまうのだ。
 実には、牛肉やえびやいかがあって、それぞれ牛てん、えびてん、いかてんといっていた。てんぷらではないが、衣が似ていないこともない。
 牛肉といっても、「犬の肉だか、何だかしれやしない」と。母によくしかられた。そのうえ、牛肉やえびやいかやねぎは、みんな、おじさんが、手でじかにつかんで入れるのだから、たしかに今考えてみるときたない。
 大きさで値段に違いがあって、牛てんの十銭のなどになると、直径十センチはあって、たっぷりしていた。(「どんどん焼き」)

 

 池田弥三郎は大正3年生まれだから、この話は大正10年前後ということなる。ぼくが食べた屋台のヤツは、こんなに豪華じゃない。「実」としては、ここには出てこないが、キャベツと、それからサクラエビ、天かす、をほんの少々、と、青のりがこれまたほんの少々ってとこで、何の肉であれ、肉などはもちろん、えびもいかもなかったはずだ。しかも、おじさんが手でじかにつまむサクラエビや天かすは、つまんでもそれを全部ではなく、その一部をちょこっとふりかけるだけで、残りは元へ戻してしまうので、あ〜あ、ケチだなああといつも思っていたものだ。昭和の初期に東京から関東そして地方へと伝播したらしい「どんどん焼き」も、どんどんその質を低下させ、更に貧乏くさいものになっていったのだろうか。それにしても、「あれ」が「どんどん焼き」という名称を持っていたとは知らなかった。屋台には確かに「お好み焼き」って書いてあったはずだが、定かではない。

 さて、実は、この文章の冒頭には、もう1行ある。それはこういう一文だ。

 

思い出してもはずかしい話だが、縁日で、よく「どんどん焼き」をたべた。

 

 この一文を冒頭として、今引用した文章が続くのだ。これを読んだとき、思わず我が目を疑った。「思い出してもはずかしい話」とはいったいどういうことだろう。

 池田弥三郎は慶応の教授であったことは、以前からよく知っていたが、改めて、この人はどういう人だろうと、またwikiで調べてみた。すると、「東京市京橋区(現・東京都中央区)銀座の天麩羅屋"天金"の次男として誕生。」とある。銀座の天麩羅屋というのが、どれくらいの格式だったかぼくには分からないが、少なくとも貴族華族といった「上流階級」ではなさそうだ。それなのに、どうして「どんどん焼き」を子どものころ食べたことが「思い出してもはずかしい」ことなのか。天麩羅屋の子であれ、慶応を出て、長く慶応の教授などをしていると、そうした庶民的な駄菓子のようなものを「食べた」という過去をできればぬぐい去りたくなるものなのだろうか。

 「どんどん焼きを食べた」ことが「思い出してもはずかしい」ことなら、ぼくみいたいに、「どんどん焼き」とすら呼べないゲテモノを何度も何度も「食べた」なんてことを嬉しがって書いているなんて、死んでしまいたくなるくらい「はずかしい」ことになるではないか。

 まあ、ぼくはそんなことをちっとも「はずかしい」なんて思ってないからいいわけだし、池田先生にしたところで、自分自身が「はずかしい」と思っていらっしゃるのは事実なのだろうから、そのこと自体にぼくのようなものがイチャモンつける筋合いではないのだが、しかし、ものを書くことを仕事ともし、若い子どもにものを教えることを生業ともしていた先生ともあろうものが、「思い出してもはずかしい」と文章に書く以上は、その「思い出すこと」が、世間一般に「はずべきこと」としてひろく認知されていることかどうかを、いちおうは考えた方がいいと思うのだ。個人的な思いを書いたにしても、それがある種の「差別観」を表明することになってしまうことがあるし、その文章を読んだ人がひどく傷つけられることにもなるからである。もって自戒としたい。

 それはそれとして、この本には、360以上もの「食べ物」についての短い文章がぎっしり詰まっている。これはこれで楽しみである。


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