5 シアワセの原点

2016.10.23

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 奈良へ行くと、やっぱりどうしても東大寺の日光・月光菩薩像を見たくなる。昔は三月堂に安置されていたが、今では大仏殿の手前の東大寺ミュージアムに移されて、美しい照明のもとで見ることができるのだが、やはりあの薄暗い三月堂の中にひっそりと佇む姿のほうが神秘的でよかったとも思う。今回も、そのお姿を見て飽きることがなかった。あの穏やかでかつ厳粛な顔をいつでも眺め、眺められることができるというのは、日本に住むシアワセの一つである。

 もっとも、外国に住めばまたそれなりのシアワセ、日本以上のシアワセがあるに決まっていて、まただからこそ、人はこぞって海外旅行にでかけもするのだろうが、ぼくにとっては、この日本で十分だし、この日本でみつかるシアワセのほんの数パーセントしかたぶん味わっていない。

 東大寺で忘れてはならない場所は、戒壇堂(昔は戒壇院といっていた)で、そこにある四天王像は、逸品である。ほとんど等身大の塑像で、そのリアルな表情をなんど感嘆して見つめてきたことだろう。大仏殿は、ほとんどお祭り騒ぎの混雑なのに、こっちへ足を運ぶ人は稀で、今回も数人しかいなかった。ほんとうによいものは、隠れたところにある。隠れたところにあるものこそ、ほんとうによいものだ。そんなことをつい言いたくなる。

 戒壇院から、近鉄奈良駅に帰ろうとすると、その道の途中に、写真家入江泰吉の住んでいた住居がある。ここを見つけたのは、何十年前だろうか。「入江泰吉」という表札を見つけて、へえ、ここに住んでいたんだ、それなら奈良の写真をたくさん撮れるはずだよなあと思いつつ、いつもその前を通っていたのだった。

 ところが、今回、その住居に「入江泰吉旧居」という立派な木の看板が掲げられ、入館料200円とある。思わず中へ入ってみると、受付があり、係のオバサンが、「ああ、よくいらっしゃいました。どうぞ、どうぞ。」と下へもおかぬ大歓迎である。

 200円を払いながら、前から公開していましたか? と聞いたところ、いえ、去年公開を始めたんです、とのこと。客間、アトリエ、書斎、茶室など、次々に説明しながら案内してくれる。嬉しそうである。ここもやはりほとんど人が来ないのだろう。「入江泰吉」といったって、若い人は知らないだろうし、まして外国人観光客など知るよしもないだろう。

 ぼくが奈良への憧憬を切ないほどに感じたのは、高校生の頃に読んだ、亀井勝一郎「大和古寺風物誌」、和辻哲郎「古寺巡礼」、堀辰雄「浄瑠璃時の春」などによってだった。そして、今思えば、入江泰吉の写真も、当時はそれと意識しないままに、ぼくの中にすり込まれていたのだ。

 まず写真集や美術全集によって、奈良の仏像の顔を穴のあくほど見つめた。覚えるほど見つめた。それが高校時代。はやく受験勉強が終わってほしい。大学に入ったら、とにかく奈良へ行くのだ、そればかり思っていた。大学に入って、ほんとうにぼくが奈良へ旅したのは11月に入ってからだった。あの日吉館に5泊ほどして、隅から隅まで歩いたものだ。それはそれはシアワセな一人旅だった。

 今回、入江泰吉についていろいろと聞いたり調べたりしていくうちに、彼はたまたま奈良に住んでいたから、奈良の写真を撮ったのではなかったということを知った。若い頃は、大阪で文楽の写真を撮っていたのだが、戦争で大阪の家を焼失。故郷の奈良へ戻ってみると、アメリカが奈良の仏像を戦利品として持ち去るという噂を耳にし、奈良の仏像を撮ろうと決意したという。そして、戒壇院の四天王から撮り始めたのだというのだ。ぼくが、こんなにもこの四天王に惹かれるのは、たぶん、この入江泰吉の写真を穴のあくほど見たからに違いない。

 アトリエと称する部屋は、三方を硝子窓に囲まれ、その窓の外は一面のモミジだ。紅葉はしていなかったが、緑したたるような光が注ぎこむ机上には、書道の筆と、絵の具と、彫りかけの仏像などが並んでいた。この机の前に座って、入江泰吉は、そうした趣味に没頭し、しばしば深夜に及んだという。そのため、朝起きられなくて、だから朝の奈良の風景写真は少ないのだともオバサンは語った。

 「愉悦」という言葉が浮かんだ。仏像の写真を撮るのも楽しい作業ではあったろう。けれども、それには一種の使命感も伴い、また職業でもあったわけだから、苦しみも多かったことだろう。しかし、このアトリエにいるときは、彼はシアワセだけを感じていただろう。そのシアワセが、愉悦が、その空間に満ちていた。

 入江泰吉がこの住居に住み始めたのは、昭和24年だという。ぼくの生まれた年だ。そして平成4年、86歳で亡くなるまで、ここに住み続けたそうだ。

 そうか、ここから、ぼくのシアワセは生まれたんだ、ここがぼくの一つのシアワセの原点だったんだ。そう思った。

 


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