【劇評】劇団キンダースペース「赤い鳥の居る風景」──「感情」をめぐって

2015.7.26

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 『赤い鳥の居る風景』のパンフレットで、演出の原田一樹はこんなふうに書いている。

 

作家(別役実)へのあるインタビューによれば、初期のものは「感情」で書いているところがあって、時に見ていて耐えられない……そうだ。もちろん、惹かれるのは、この「感情」があるから、ではない。それどころか我々は、何とかしてこの「感情」を乗り越えられないかと毎日歯ぎしりして稽古の時間をすごしている。

 

 それなのに、ぼくは、キンダースペースの『赤い鳥の居る風景』をみていて、なんども「感情」を深くえぐられ、ゆさぶられ、涙さえにじんだのだった。それでは、キンダースペースの毎日の「歯ぎしり」は徒労だったのだろうか。この芝居は、結局の所、ぼくの「感情」に訴えることに終始したということになるのだろうか。

 原田は続けて言っている。

 

「感情」ではなく「方法」。別役さんの言を待たずとも、これが表現者としての成熟の一つのありかたであることは間違いない。いつその地平に到達できるのか。「方法」はしかし、到達するものではないかもしれない。この「方法」は有効なのか、という不断の疑いにさらされて、やっと機能するものだろう。つまり私たちは、いつの時代でも「空疎感」と「実感の欠落」をその命題としてきたという、ただ、それだけのことかもしれない。

 

 「感情」に対置される「方法」が、いったい何を意味するのか、ぼくにはほんとうのところよく分からない。けれども、感情に訴える表現が、表現として「成熟」していないのだということはよく分かる。はやい話が、「お涙頂戴」をこととする映画や演劇やドラマはそれこそ腐るほどある。それらは少なくとも「成熟した表現」とは言いがたい。そうした意味では、「方法」とは、演劇なら、演劇としてどう成立させるかのギリギリの決着のしかた、のことなのかもしれない。あるいは、「泣ける」という個人的な感情に収斂するのではなく、「なぜ泣けるのか」という問題として普遍化されるということなのだと言えばいいのかもしれない。

 とにかく、この芝居を二度見て、二度ともぼくは、深く感情を揺さぶられた。涙がにじんだ。

 それは、ラストで「弟」が死ぬからではない。盲目の「姉」が「かわいそう」だからでもない。そうではなくて、「姉」の語る「言葉」が、ひとつひとつ、氷でできた刃のように胸に突き刺さり続けたからだ。「弟」の語る「言葉」が、まるで、今の今、この世界で叫び続ける子どもたちの声としてぼくの胸に響き続けたからだ。

 何という見事な「言葉=肉声」だったことだろう。ぼくは『赤い鳥の居る風景』を今回初めて舞台で見たのだが、今後、この戯曲を読むときに、「姉」を演じた古木杏子の声、「弟」を演じた中村翼(中学3年生)の声を想起せずには読めないだろう。声だけではない、そのセリフのリズム、間、そこに込められた「感情」、それらすべては、もう他に置き換えることはできないだろう。この2人を中心に、すべての役者たちの姿、声、動き、そして、素晴らしい音楽と、照明、美術、衣装、そうした一切合切が、戯曲を読み返すたびにぼくの心の中によみがえり続けるだろう。

 キンダーが、「『感情』を乗り越えられないかと毎日歯ぎしりして稽古の時間をすごし」た日々は、だから、見事に結実したのだ。つまり、「泣けた」「感動した」では決して終わらない芝居となったということだ。そればかりか、見終わった後に、実に複雑な、そして重大な問題をぼくらに残し続ける舞台となったのだ。

 借金を残して自殺した両親をもつ姉と弟が、「借金を返し続ける」ことこそが「本当の生活」だと考えるが、それを「世間」は理解しない、というのがこの芝居の基本的な構図だが、ぼくらがこの芝居を見終わったあと、痛切に感じ取らなければならないのは、ではぼくらにとっての「借金」とは何か。ぼくらは、その「借金」を意識し、それを「返し続けよう」と意志し、そのために「つらい道」を選びとり、「一生懸命に走ってきた」か、という問題である。その問題は、歴史的にいえば、「戦後問題」であろうし、個人的にいえば、それこそ人の数だけあるだろう。ぼくらは、「しずかな生活」を求めて何を「がまん」し、何を「がまん」しなかったか。何も言わずに死んでいったひとたちは、何を「がまん」していたのか。(たとえば、ぼくが、涙のにじむ思いがしたのは、シベリア抑留者だった父の「がまん」や、もう世間ではほとんど問題にしなくなった「中国残留孤児」やその「親」たちの「がまん」を想起したからでもあった。)

 原田が言うように、ぼくらはもうここ2、30年、いつの間にか「人はなぜ生きるのか」という命題の共有感を失ってしまっている。「借金」を返そうという意識どころか、「借金」をしているという意識すらなくしてしまっている。そして、時代はますます「空疎感」と「実感の欠落」を加速させている。そうした状況の中で、キンダーのこの『赤い鳥の居る風景』の舞台は、時代の空気への激しい抵抗となっている。

 すべてが「空疎」なのではない。すべてに「実感」が欠落しているのではない。「空疎」な「実感」のない「現実」と、そして「言葉」とはどんなものなのか、それをくっきりと舞台の上に現出させた。そしてその「現実」の中で、「本当の生活」は、どのようなものとして認識あるいは実現されうるのか、それを「歯ぎしりしながらの稽古」によって見事に提示してみせたのだ。

 


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