【劇評】劇団キンダースペース「全俳優によるモノドラマ」──成熟した「モノドラマ」

2015.5.24

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 「モノドラマ」というのは、原田一樹が創始した演劇のひとつのジャンルである。このことについて、原田は、2004年、熊本県立劇場企画公演オンステージシアター「モノドラマ」の第二回目の公演を前にして、当時館長の故川本雄三氏と行った対談の中でこう語っている。(対談の中の発言をまとめてあります。)

 

実は、「モノドラマ」を作る5、6年前に初めて一人芝居というものを観たんです。一人芝居は一人の俳優が一つの役を演じることが中心で、見終わった後に、私は、演じるだけではなく、もっと「俳優が空間を創っていく」ような形はないかと考えました。(……)役を演じることが主眼ではなく、舞台には一人しかいないけれど、例えば椅子があったら、そこに、別の人物が座っているように見える、あるいは、何もない舞台が異なる部屋や外の空間になったり、というようなことですね。これは、とても俳優の力量が問われるのですけれど。(……)俳優は、演じて説明するのではなく、観客の想像力をかきたてる瞬間を創ることができるかどうか、ですね。演劇ならではの表現を求めて観客は劇場に足を運んでくれます。「何もないそこに何かが見える」という感覚を、舞台を通じて共有できるといいですね。(……)つまり、あるシーンで、その俳優が見つめている何もない空間の何もない一点を、観客も全員見ているというのが理想です。まあ、ほとんどの観客は、俳優を見てしまうものですが。ともかく、俳優一人が多数の人物を演じ、ひとつの文学世界を空間に創り上げる形の演劇を、一人芝居や朗読劇、リーディングとは別のものとしたいという思いから「モノドラマ」と名付けました。

 

 つまり「モノドラマ」を定義すれば、「俳優一人が多数の人物を演じ、ひとつの文学世界を空間に創り上げる形の演劇」ということになる。その点で、「モノドラマ」は「講談」や「落語」に似ていると原田は言う。「上手い噺家は、瞬間の動きで一つの空気を作り出す。」そして「場のリアリティ」を創造するのだと言う。

 「講談」や「落語」との相違は、俳優が一人という点では同じだが、俳優が舞台を自由に動きまわり、簡単な舞台装置、照明、音楽、効果音などが使われるという点が違うといえば分かりやすいだろう。(「落語」でも、かつては、簡単な舞台装置を使い、音曲なども加えて演じる形も行われましたが、今では、あまりみかけません。)

 更に、川本氏の「『モノドラマ』では、日本の近代文学作品を取り上げていますね。」という質問に対してはこう答えている。

 

外国の作品も取り上げてみましたが、どうもしっくりこなかったのです。翻訳にもよると思いますが。モノドラマとして成立するものを求めた結果、近代というものと向き合った作家の作品がやっぱり腑に落ちる。なぜかと思うと、やはりこれらの作品は、時代の中で揺れている。俳優が演じてみると、そこに主人公の不安とか、葛藤といったものが空間に表われてくる。そこに魅力を感じます。

 

 ここまでくれば、キンダースペースの「モノドラマ」が、いかなるものであるかの概要は理解できよう。

 とはいえ、実際に見てみないことには、なかなかその感じはつかみにくい。ぼくが最初に「モノドラマ」を見たのは、2009年の「オダサク×ダザイ」あたりだったかと思うのだが(もっと前かもしれない)、正直、かなりとまどったのを覚えている。何人もの役を演じ分けるのは、落語でおなじみだが、いわば「地の文」のところを、セリフ(会話)と同じ立ち位置で語ったり、二人のセリフを落語のように「上下を切る」ことなく言うなど、新しい試みが、すっと入ってこなかったのだ。それならいっそ「朗読」でいいのではないか、と思ったような気もする。

 けれども、それは、原田のいう「何もないそこに何かが見える」という想像力の働かせ方に、観客としてのぼくが慣れていなくて、「俳優をみてしまう」結果だったのだと、今なら思うわけである。もちろん、始めてまもない「モノドラマ」そのものの演出・演技の未成熟ということもあったのかもしれないが。

 さて、あれから、およそ6年ほど経ち、それ以後の「モノドラマ」をたぶん欠かさず見てきて、今回の、「全俳優によるモノドラマ」6本を見たわけだが、その6本すべてが、完成度が高く、充実していて、それよりなにより、見ていて楽しくてならなかった。「モノドラマ」の手法が、脚本・演出・演技のすべてにわたって、成熟した感があった。それに観客としてのぼくの成熟もあったのかもしれない。

 今回は、5月21日のBプログラム、太宰治『吉野山』(平野雄一郎)、宮本輝『火』(古木杏子)、直木三十五『相馬の仇討』(深町麻子)、そしてAプログラム、有島武郎『一房の葡萄』(小林もと果)、岡本綺堂『指輪一つ』(森下高志)、向田邦子『大根の月』(榊原奈緒子)の順番で見た。

 どれをとっても、鮮やかに情景が目の前に広がり、原田のいう「ひとつの文学空間」が見事に舞台上に現出した。

 『吉野山』は、寒さと飢えに震える出家のみじめさと心の葛藤を平野が好演。「ウソツキ!」と舞台正面にむかって小さく叫ぶ平野の演技には、観客からも思わず笑いが。平野は、太宰の世間に対する屈折した抗議をユーモアも交えて見事に演じた。坊主の周囲の意地悪い村人たちの表情までもが、生き生きと舞台に浮かぶさまは、まさに「モノドラマ」の真骨頂だ。

 『火』は、非常に深みのあるドラマに仕上がっていた。古木の胸の奥にこまかい振動をおこすような低い声による語りに、人間の心に巣くうどうしようもない欲望や衝動が舞台のうえのあやしくうごめいた。暗く静かな舞台空間を直線的に断ち切る赤い照明にするどく光る古木の目も印象的。これも「モノドラマ」の魅力のひとつだ。

 『相馬の仇討』は、講談の語り口と、歌舞伎のような切れのある体の動きに、深町の持ち前のシブサとヒョウキンさが加わり、エンタテイメントとしても十分に通用する独特の世界を作り出していた。葬式の立て札(?)のような登場人物を墨書した立て札を人物に見立てて、それを縦横に扱うという演出も今までにないアイデアで面白かったし、深町の柔軟な演技力にうなった。

 『一房の葡萄』は、お恥ずかしい次第だが、この6本の中では、ただひとつ読んだことがある作品。(ほんとに読書量が足りない)おなじみの話だが、こうして「モノドラマ」になって、小林の落ち着いた成熟した語りに耳傾け、その姿に見入っていると、美しい紫色の葡萄が、真っ白い先生の手のうえに、ほんとうに「見えた」。そして、横浜の青い海も。有島武郎の透明な文学世界にしばし酔わせてもらった。

 『指輪一つ』は、一種の怪談。関東大震災による東京の混乱、それを旅の途中で知る「私」の困惑。そして偶然の出会いが、信じられない結末へと導いていく展開を、森下は淡々と、しかも緊張感をもって、演じきった。「そんなことはありえない」はずの「奇跡」だが、そこに人間の罪と、救いの両方を見せてくれた。ここにも「みえないもの」が現出したのだ。

 『大根の月』。向田邦子の穏やかな語り口が、そのまま榊原に乗り移ったような熱演。大根の月、それは、大根を薄く切ろうとして失敗し、昼の半月のようになったというエピソードによるのだが、「事件」へと向かうスリリングな展開に観客を引き込んでいく演技は見事。日常がはらむ恐ろしさと、そしてたぶん希望。胸しめつけられる思いで見た。

 こうして、それぞれの舞台を思い返していると、傑出した演出と、熟練の演技とに今更ながら感嘆するばかりだが、それと同時に、それを可能にした数々の日本近代文学・現代文学(ふつう、「近代文学」は、明治から昭和の太平洋戦争までの文学、「現代文学」は、太平洋戦争以後の文学のことを指します。)の力も改めて思いしらされる。

 原田がいうように、日本の近・現代文学は、「時代の中で揺れ」、「主人公」は「不安・葛藤」を抱え込んでいる。それらの作品がこのような形で舞台化されることで、かれらの「文学」が更新される。そのことの幸いをぼくらは噛みしめなくてはならないし、改めてキンダースペースに感謝しなければならない。

 


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