16 「がんばれ」はやっぱりよくないか?

1998.6


 先日のぼくの「オバサンも辛いのだ」に対して、友人がメールをくれた。

 車椅子で花見をしていた女性が抗議しているのは、「他人の気持ちが自分には分かる」という、そのオバサンの、人間がむすびつくための最低限のルールにたいする侵犯なような気がするのだけど。

そう彼は書いていた。彼はまたそのメールの冒頭で、次のようにも書いていた。

自分以外の人間の気持ちは基本的には人間には分からない、他人の気持ちはわたくしにとってブラックボックスである、ということから、人間は他者との接触をはじめるのではないかしら。

 他者の気持ちはわからない。それが確かに出発点だ。それを「私にはわかる」というのは傲慢だし、すべての非礼はその傲慢から発するだろう。それはほんとうにその通りなのだ。

 しかし、ぼくが考えていたのは、その後にある。「オレの気持ちがお前なんかに分かってたまるか」という思いは、誰にでもある。しかし、その思いもまた傲慢の兆しではないのかということだ。

 わかるはずのない他者の心を何とか思いやること、そして、そのことで他者と結びつこうとすること、そうすることでぼくらは生きていける。そこに生まれる誤解は必然的なものだが、その誤解をバネにより深く他者の心に触れていくことができる。「オレの気持ちはオレにしかわからない」と言うのはそうした人間のつながりを一方的に拒否することになる。「オレの気持ち分かってよ。」という所から、あらゆる表現活動が生まれるのだろう。(その意味では、車椅子の女性の「投書」はその表現だったのだと思う。)

 ともかくぼくが言いたかったのは、「アンタの気持ちわかるわよ。つらいでしょ?でも、がんばってね。」というオバサンの脳天気な言葉は、単に脳天気なだけなら友人の言うとおり「人間がむすびつくための最低限のルールにたいする侵犯」であろうが、そのオバサンが声をかけずにいられなかった気持ちは、まったく予想外のところにあった可能性もあるのではないかということだ。車椅子の女性の感じた怒りは、「私の気持ちなんかわかっていないのに、分かったふうに思わないでよ。」というものだろうが、それなら、そのオバサンにだって同じ言葉を言う権利はあるということだ。

 こう考えてくると、実は最大の問題は、友人も指摘していた通り「花見をたのしんでいるひとに『がんばれ』は、どこか似合わないと思う。」という所にありそうだ。

 「がんばれ」は一応の言葉としていいものだとぼくは書いたけれど、そのオバサンがただ何気なく「きれいな花だわね」というふうに語りかけていれば、普通の会話になっただろう。普通の会話になれば、お互いの気持ちも具体的に伝わっただろう。車椅子の女性も、オバサンも自分の思いをゆっくり伝えることができたろう。その会話を抜かしてしまって、いきなり結論めいた「がんばれ」だけ言ったことが「人間のむすびつき」を成立させなかった。そもそも、その普通の会話ができなかったのは、オバサンの方に、車椅子の女性と同じ立場にたって会話をする気持ちがなかったからだとも思えるのだ。

 「人間はただ言葉によってのみむすびついている」のなら、やはりその言葉の使い方、会話の仕方に習熟していくことが必須になる。なんでもかんでも「がんばれ」ですましていたら、心のこもった会話は成り立たない。だとしたら、逆に「がんばれ」を使わないことで、何かいままでとは違った会話、そして人間の結びつき生まれるのではなかろうか。やっぱり、「がんばれ」はよくないのかもしれない。

友人のメールを読む(全文掲載)