ことの詳細を知らないし、みじかい時間で意をつくせるかどうか。

 自分以外の人間の気持ちは基本的には人間には分からない、他人の気持ちはわたくしにとってブラックボックスである、ということから、人間は他者との接触をはじめるのではないかしら。

 座頭市は、目がご不自由とはお気の毒にといわれると、「へへ」、わらってごまかす。クライマックスの胸の空く殺陣で市がたたっきるのは、やくざの悪親分ばかりではなくて、たいていはオープニングで声をかけてきたあの善良そうなおやじさん、おばさんもではないかと、ぼくはいつも思っていた。目が不自由で、なぜ気の毒なのだ? なぜ俺がつらがっていると思うのだ? あんたに俺の気持ちが分かるのかね? 俺の気持ちはあんたに分かられるほどシンプルだと、あんたは思っているのかね?市はそんなふうに思っているように見える。「見える」だけだが。

 市の目が見えないことに同情する権利は、われわれにはない。目が見えぬことで市がこうむる損害を、なんとかなくさねばならない義務が、そのために戦う義務が、目の見える利益を享受しているわれわれには、ある。と、そう思って座頭市を見てきました。

 がんばれって、わたしがなにをがんばっていると、あなたは思っているのですか? わたしのいまのふるまいから、わたしの心のなかの、なにを想像して、あなたはがんばれというのですか? 車椅子で花見をしていた女性が抗議しているのは、「他人の気持ちが自分には分かる」という、そのオバサンの、人間がむすびつくための最低限のルールにたいする侵犯なような気がするのだけど。

 もちろん、「何かを一生懸命やっている人、意気阻喪している人に向かって」がんばれというのは基本的にいいことだと、ぼくも賛成するけど、花見をたのしんでいるひとに「がんばれ」は、どこか似合わないと思う。

 今月の言葉が、ちょうどこのことだったので、「おばさんもつらいのだ」に、あと一言つけくわえてもらおうと思って、よしなしごとを。

98/6/28(上倉庸敬)

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