不眠症になりたい


 

 文士とか文人とかいわれる人たちの随筆などを読むと、たいてい「不眠症」という言葉が出てくる。「不眠症」でない者は文士ニアラズといったいきおいである。最近の埴谷雄高という人なぞときたら、その作品の冒頭に「闇……。私は頑固な不眠症を殆んど持病のように飼っているので、どちらかといえば、深夜、闇につつまれた寝床のなかで凝っと息をひそめたまま言い知れぬ不快を噛みしめている時間がむしろ多いくらいである。」なぞと書いて、作者その人が頑固な不眠症を飼っていなければ書けないような文章を綴っている始末で、そんなものを読んでいると、文士っていうものは「不眠症」でメシを食っているんじゃないかとカングリたくなってしまう。

 文士になろうなどと本気で考えることはないにしても、文士面した人間に多少の羨望を感じている僕にとっては、このことは、正に絶望的なことであるといってよい。何故というに、僕は「不眠症」の「不」の字も知らないからなのである。それどころではない。僕は時々自分が「不眠症」の逆の病気──「不覚症」とでもいおうか──にかかっているのではないかと疑いたくなる程なのである。それ程眠い。

 だいたい僕から見れば、文人がよく「ねむれぬままに闇の中にパッチリ目をあけていると、いつか白々と夜が明けて来た」などと書くのは、あれは全くの虚構としか考えられないのだ。何しろ、闇は僕にとってほとんど眠りを意味するといってよく、その中で「凝っと息をひそめている時間」などありはしないのである。

 僕の友人にも「不眠症」を訴える男がいて、その男の話によれば、どうしても眠れないと仕方がないから本を読むが、読んでいると夜があけてしまうというのである。僕は床の中で十分以上本を読んだ、いや読めたためしはない。その男にそういうことを話してやると、彼は、深い羨望のまなざしで僕を見るらしいのである。が、僕はそれをどうしてもあわれみのまなざしとしか考えられない。闇の底で、凝っと息をこらして思索にふけったり、夜の明けるまで本を読んだりする人間と、スヤスヤと健康なね息をたててねむりこけている人間とを対比して考えてみる時、そして後者こそ自分の姿であると考える時、そこに我が精神生活にとってまことにゆゆしい事実を発見せずにはおれないのである。

 夜よくねむれて昼間はいつも頭が冴え冴えしているというのならこれは結構なことである。ところが僕はさっきもいったように昼間もねむい。これはますますゆゆしい事である。僕の友人には、又、いつも昼間はねむそうな顔をしている男がいるが、彼の場合は、夜になるとランランと目が輝き出すたちで、「不眠症」持ちというよりは、それがこうじて夜行性動物に転化してしまったように考えられるわけで、それはそれでいいのである。が、夜はよくねむれて、しかも昼間もねむいとなると、これはどういうことになるのか。

 僕は時々アンタンたる気持ちにおそわれる。そしていつもため息まじりにこう思うのである。「せめて不眠症にでもなって、夜ぐらいはおきていたい!」と。

(1971)



この文章を書いてから、はや27年もたつことになるわけですが、相変わらず昼間も夜も眠い毎日。人間進歩しないものです。ただ、これはどうも歳のせいらしいのですが、ときどき「不眠症」というほどではないが、妙に寝付きが悪いことが一年に数回あります。ま、まことにシアワセナ人間というべきでしょう。(1998)