「知的生活」とは何の謂ぞ


 「現代の社会において、自由なる知的生活を送るということは至難のわざである。その理想を追求すれば家庭を破壊したり、忌まわしい性的傾向(筆者註・ホモセクシュアルのこと)におもむいたりすることになる。われわれは、まあまあ幸福な家庭生活と、まあまあ満足のゆく知的生活の両立を求めるのが無難であろう。そのためには配偶者の選択が決定的である。単に美醜とか、健康度とか、持参金とか、セックス・アピールだけでなく、未来の自分の知的生活とどこまで調和できるかを考慮に入れなければならない。その危険をいっさいさけようとすれば、いまあげたような道を選ぶより仕方がなくなるのである。このように考えると、現代では配偶者の根本的人生観、つまり、本気で信じている宗教が圧倒的な重要さを持つことがわかってくる。昔ならば男の役割と女の役割が社会通念的にきまっていたので、生活様式にだいたい予想がついた。しかしいまはそれがぐらついていて、お互いがそれぞれ自分たちのルールを作り上げなければならない。これはまことにしんどいことで、失敗する可能性も高いのだ。安定した知的生活のために、信仰などのしっかりとした基礎の必要が痛感されるのはそのためである。」

 冒頭から長い引用になったが、これは最近かなり売れている渡部昇一著『知的生活の方法』の末尾である。ここには、ぼくがこれから考えてみたい種々の問題が含まれているので、省略なしに引用してみたのだ。

 この本が、何年か前にブームを呼んだ『知的生産の技術』のむこうをはっていることは、題名からもすぐに際しのつくことである。事実、本文で、「カードシステムの問題点」が検討され、カードをとるよりは本を買え、といった提案がなされたりしている。『知的生産の技術』が出た時は、確かぼくは大学生で、ご多分にもれず熱狂した口で、スティール製のカードボックスやら、ファイリングボックスやらを買い込み、B6カードもふんだんに買いそろえ、いざという頃には熱もさめてしまい、結局何の役にもたたなかった。

 先日、岡井隆著『慰謝論』を読んでいたら、似たようなことが書いてあったので苦笑した。そこで彼は『知的生産の技術』にひどく感心し、カードも数ヶ月作ってみたが結局ノートに戻ってしまったことをのべ、こんな理由をそのあとにくっつけている。

 「わたしのように、科学の実験すら一つの遊びに化してしまっている真剣味のない人種にとっては、のんびりと、一冊のノートをひっくり返している時間も、何かをやっている意識をつよめるのであって、結果の見事さより、プロセスのたゆたいを愛している趣味人なのであるから、到底、京大人文研のアドヴァイスもぴったし来る訳はないのであった。」

 これは京大人文研への反措定でも何でもない。つまる所、住む世界の違いを示しているにすぎない。「〈何かをやっている〉意識」など、京大人文研にとっては、まさにナンセンスの極みとしか映らないだろう。それは当然であって、「趣味人」と「研究者」が同じ土俵ですもうをとれるわけはないのだ。(もっとも岡井が自らを「趣味人」と規定するのを、ぼくはそのまま真に受けてはいないことはいっておかねばならない)

 ぼくも、だいたい、岡井隆と同じような経過をたどったのだが、ただ学生であった関係上、多少とも研究者のまねごとはせねばならなかったわけで、本当なら、もっと豊かなみのりをもたらしてくれてもよかったはずだ、と思う。しかし、『知的生産の技術』に熱狂したぼくは、決して、研究者のはしくれとしてのぼくではなく、趣味人としてのぼくであったことが、何より問題であったのだ。

 なぜ、趣味人を自覚する岡井隆が、カードシステムにとびついたか。なぜ、研究生活を必ずしもめざしていなかったぼくが、カードボックスを買ったのか。岡井隆のことは知らない。ぼくについていえば、「知的生産」ヘの幻想を抱いたからだろうと思う。「技術」であるならば、天分うすい自分でも努力次第で身につけられるのではないか。そして、身につけた「技術」でもって「知的生産」を次々にしていけば、やがては、「知的エリート集団」に自分も仲間入りできるのではないか。といった幻想が、地道な研究生活をとび越えたところで夢みられたのではないかという気がする。しかし、そういった愚かしい考えが必然的に壊滅してしまえば、『知的生産の技術』は、「技術者」たる学生や研究者の極めて有益な参考書であることに何らの疑問の余地もない。ただ、カードを買ったり、カードボックスを注文して取りよせたり、カードボックスに整理のための見出しを作ったりという一連の行為が、当時のぼくに、「何かをやっている意識」をつよめてくれたこと、そしてそれ以外の何物でもなかったことを、今苦々しく思い出すだけである。しかし、それも京大人文研が悪いのではない。素人の身もかえりみず、ついまねごとをしたこのぼくの至らなさである。(しかし、素人にも、まねごとさせようと勧めたのは、やっぱり、梅棹さんなのだ。)

 さて、そのカードボックスが、一度も「知的生産」のために働かないうちに、丁度よい大きさを女房に見込まれて、子供の靴下入れに成りさがって数年、病の再発を促すように登場した本が、冒頭にあげた『知的生活の方法』なのである。ぼくは、この題名に一瞬、警戒の目をむけたが、読みはじめるとたちまちのうちに熱狂の渦に巻き込まれ、数週間はうわ言のように「知的生活・知的生活」と唱えつづけるはめになったのだ。とりわけぼくを嬉しがらせたのは、「知的な生活が細々とでも続いている確実な外的指標としては、少しずつでもちゃんとした本が増えているかどうかを見るのが、いちばん簡単な方法である。」といった記述である。ふだんから、読めもしないのにしこたま本を買い込んでは、女房やら自分自身に対して何となくうしろめたさを感じていたぼくには、たとえ読まなくても、本が増えているということが、知的生活の存在を証明するのだ、といった言葉は、何やら天の声のように響いたものだった。更に「本を買わない人間に知的生活はない」とまでいいかねない著者の勢いにのまれ、そうだ、やっぱりオレは「知的生活者」だったのだ!本を買わない連中よりずっと上等な生き物なのだ!と夜空に向かって叫び、歓喜はここに極まったのである。そうして、熱に浮かされたぼくは、渡部教授にならって夕食事のビールをワインに切り替え(それでも結局は眠くなってしまうのだったが、ビールによる眠けに較べるとずっと知的な眠けに思えた。)チーズと牛乳を食するように心がけ、果ては、やはりオレは結婚すべきではなかったのではないかと考え込んだりしたのである。末尾の文章が何となく頭の隅にひっかかっているのも、そうしたぼくには何らの障害にならなかった。そのうちにこの本は売行がぐんぐん伸びて、書店では大量に平積みにされ、テレビのCMにまで顔を出すようになってきた。職場でもそろそろ、この本が話題になり出した。それと同時に、頭の片隅にひっかかっていた末尾の文章への疑問が次第に大きくなりはじめ、ちょうど玉ようかんの一点を突くと、そこから全ての皮がくるりとひっくり返るように、この本は末尾の一点から反転しはじめたというわけだ。

 『知的生産の技術』において、「知的生産」というのは、かなりはっきりとした概念規定があり、それは、「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──をひとにわかるかたちで提出すること」というふうに説明されている。従って、どのように血迷っても、それは所詮そういう意味での「知的生産」に関する範囲での血迷いにすぎないわけだ。カードボックスが靴下入れになってもそれはそれだけのことで、いつ又靴下入れがカードボックスに変わるやも知れぬ。ところが、「知的生活」ということになってくると、そういう単純な問題ではなくなるのだ。大げさに言えば、結婚生活を続けるか離婚するか、といった問題に発展する契機を含んでいるのだから恐ろしい。

 「知的生産」には「知的活動以外のものによる生産」あるいは、「知的消費」が対立概念として示されているが、「知的生活」の対立概念はそれでは何なのか。著者は、明確な概念規定をしていないが、頁を繰ると次のような記述がみえる。

「大の男が、十年間に一冊も本らしい本を買わなかった、ということは、この人は日常生活のみをやって過したということなので、知的生活はなかったと言ってもよいだろう。」

 ここから判断すれば、「知的生活」の反対概念は「日常生活」だということになる。しかしこう書いただけでは、「本を買わなかったということは、本を読まないでごはんばかり食べていたということだ」ぐらいの実質的な内容しか持っていないではないか。しかもこの貧弱な実質的な内容すら、結局、偏見であって、本は借りても読めるものだし、借りた本を読んだのでは本を読んだことにならないとは誰にも言えない。たしかに、買わなければ落ちついて読めないという人種もいるが(現にぼく自身は、多分にその気がある)、そうでない人種だっていることを、なぜ頑固に否定したがるのかぼくにはわからない。渡部教授が、わざわざ傍点を打って強調している「日常生活」とは、どれほどの重さを担わされているのだろうか。いや、重さを担わされるどころではない。教授はこの「日常生活」ということばに思い切り侮蔑的な意味をこめているのだ。

 「日常生活」が、単に食事をとるとか、歯をみがくとか、女房の買い物につきあわされるとかいったことだけで成り立っているのなら、そして「大の男」が十年もかかって、その程度のことしかしなかったというのなら、渡部教授に軽蔑されても仕方がないだろう。けれども例えば病人の看病をしたり、子供の出産に立ちあったり、友人のたわいもない愚痴を熱心に聴いてやったり、といったことも「日常生活」と呼ぶものの中に入るのだとしたら、それほどまでに侮蔑的な言葉をいただかなくてもよいのではないかと、これはごく自然の人情として考える。

 ずいぶん遠まわりをしたが、ここで冒頭に引用した文章に戻ろう。一読して明らかなように、渡部教授がここで大前提としているのは「自由な知的生活」を送ることが人生の最重大事である、ということである。なぜ、それほどまでにして「知的生活」を送らねばならないかということへの納得のいく説明はない。それも当然といえば当然で、渡部教授はそういった疑問が心に芽生えようもないほど「知的生活」を生きているわけであろう。

 しかしごくふつうの感覚で考えた場合、結婚相手まで「知的生活とどこまで調和できるかを考慮に入れ」て選べというのは、普通一般の恋愛結婚を否定しているわけで、何となくうす気味悪さを感じさせる。しかし、渡部教授は嘆くのである。

 「結婚して子供ができたとたんに、前途有望な学徒がまったくさえなくなり、クラッシックの音楽会行きもピタリとやめる、などという例は悲しいほど多いのである。」

 あんた本気?と、ちょっと聞きたくなる。「クラッシックの音楽会行き」=「知的生活」の図式は、ここでは微塵も疑われていない。そればかりか、渡部教授は、この学徒を堕落したとしか考えられないのである。教授がどう考えようと勝手だが、学徒の方からすれば悲しまれたりするのははなはだ不本意であろう。

 「単に美醜とか、健康度とか、持参金とか、セックス・アピールだけでなく……」とは何のことか。だれに教えを垂れていらっしゃるのかは知らないが、ぼくたちが、そんな諸点を「考慮に入れて」配偶者を選ぶと思っているのか。「だけでなく」という以上は、それも認めて、なおその上に、というわけか。しかし、一般には、俗っぽいけど、「好きになった」り「愛しちゃった」りするから結婚するのではないのでしょうか。持参金めあてとか、セックス・アピールがすごいからとか、美人だからとか、そういう理由だけで結婚する人間っていうのは、「知識階級」はいざ知らず、一般には極く少数のような気がします。

 結婚に関する話は、一種のアイロニィとして読めないこともない。実は、「知的生活」を妨害する悪妻をもっているのが教授自らに他ならない、といった裏があるなら、それはそれでおもしろく読める。しかし、さっきから、本のジャケットに印刷されている教授の写真をちらちらと見ているのだが、どうも、美人で、健康で、持参金も多く、セックス・アピールにもあふれていて、しかも、「知的生活」を一切邪魔しない奥方を隣に置くのがぴったりの御顔であって、そうしたアイロニィは期待できそうもない。

 それはそれとして、最後の一行。「安定した知的生活のために、信仰などのしっかりとした基礎の必要が痛感されるのはそのためである。」これは、ぼくからみると、驚くべき倒錯としか思えない。「信仰」が「知的生活」の「基礎」になるなどということは、ぼくには考え及ばない。なぜなら、現代において、「信仰」がそんなに安定しているものとは思えないからだ。「信仰」を「基礎」にして、その上に安定した「知的生活」を、などといっているうちに、肝心の「基礎」たるべき「信仰」がぐらついてくる、というのが現代であろう。森有正が次のようなことを言っている。

 「信仰はたえず無信仰と直接していて、信仰と無信仰とは双生児であり、人間経験の中に信仰の基礎がないことは、無信仰に就いてと全く同様なものである。それは生きる現実そのものであり、一定法式の下に書くのには相応しくない。」(「土の器に」あとがき)

 このように、「生きる現実そのもの」であらざるを得ない「信仰」が、何ものかの「基礎」になり得るような安定性を持っているはずがない。「信仰」を待つということは、絶えざる「不信仰」との闘いだろう。ところで、この「信仰生活」というものは、渡部教授の分類によると、「知的生活」なのだろうか、「日常生活」なのだろうか。これは、いささか意地の悪い質問かも知れぬ。教授にとっての「信仰」とは、「根本的人生観」でしかないのだから、「知的生活」の「手段」とか「条件」くらいにしか考えられていないのだろう。だから、「信仰などのしっかりとした基礎」というような表現が出てくるのだ。「などの」ということは、他に有効なものがあれば、別に信仰でなくてもよい、ということだ。渡部教授のいう信仰は、結局処世術にすぎまい。

 ぼくは、いったい長々と、何が言いたくて書き連ねているのだろう。結局それは簡単なことで、「知的生活」と「日常生活」(「家庭生活」)といった二元論で「生活」をとらえることはできないし、そういうとらえ方は、いかに魅力に満ちていようと誤りだ、ということだ。「まあまあ幸福な家庭生活と、まあまあ満足のゆく知的生活の両立」などまるでナンセンスなのだ。「生活する」が「生きる」に等しいとすれば「家庭の中でパパとして」生きようが、「書斎でカントを読んで」生きようが、「生きる」ことに何らのちがいはないはずで、それを「家庭生活」「知的生活」とまるで、まんじゅうでも割るように二つに分けておいて、どちらもまあまあの所で両立させよう、などというのは、「受験勉強」と「クラブ活勤」の両立を悩む受験生ほどにも切実さがないし、無意味なことである。

 ぼくの問題は、むしろ、ともすれば二元論になりがちなこの問題を、いかにして一元論として成立させ、実行してゆくかということにある。一元的に「生活」がとらえられた時、はじめてぼくは本当の意味で「生きる」ことができるのだろうと思っている。

「僕のすベきことは、この生活を護り抜き、生き抜き、そして死ぬことなのだ。本当にそれだけなのだ。」(森有正『バビロンの流れのぼとりにて』)

 こういうふうに言い切る自信を持てる「生活」は、今の所僕にはない。しかし、少なくともそういう「生活」を自分のものにするためには、渡部教授のように「知的生活」と「日常生活」の二元論を立てて、明快に「日常生活」を切り捨てていく態度だけは、いかに「男らしく」見えようとも、「誘惑」としてしりぞけていかねばならないと思うのである。

(1977)



この文章を書いてから20年ほど経った今、ぼくは「家庭を大事にしてこなかった」と言って、ことあるごとに妻に非難されています。「日常生活」を大事にするのだと自らに言い聞かせながら、結局、ぼくのしてきた生活は渡部教授の説くような「自己中心的」な生活に他ならなかったのです。今読んでも、この渡部教授の「時代錯誤的男尊女卑的」な思想的態度は腹立たしくもあり、滑稽でもありますが、しかし、実際のところ、ぼくもこの思想の呪縛から解放されていたわけではなかったということでしょう。日曜日に、家族とともに何をするというのでもなく、ただゆったりと過ごすことが、ぼくにはどうしてもできませんでした。気がつけば、何かにせきたてられるように自室に閉じこもり、本を読んだり、書き物をしたり、つまりは「疑似知的生活」の実践をしていたわけです。いやはや、「男は、みんなジコチュウだ」と先日もある女性からののしられましたが、返す言葉もありません。

(1998)