一つの葬送


 火葬場の控室は、灼熱した石炭ストーブで異様に暑かった。ガラス戸を隔てた外は、師走の冷たい風が、砂ぼこりをあげて吹いていた。

 テーブルの回りには、八人程の男女学生が黙って、ぎこちなく坐っていた。男の学生は、自分が今どういう表情をしているべきかに戸惑いを感じているらしかった。沈痛な顔をしていたかと思うと、次の瞬間には薄笑いを浮かべて隣りの学生に話しかけたりした。そしてそれは、そのまま、僕の態度でもあった。

 僕の斜め前に坐っていた女の学生は、まっすぐに前をみすえたまま、時折、眼尻ににじんでくる涙を、顔も動かさずに指でぬぐっていた。僕達の前には、大きな盆に並んだオニギリが置かれていた。黒いゴマのついたそのオニギリは、この場にそぐわない温和さを持っていた。僕は、最初に手を出して、無雑作に口に入れた。淡い塩味が涙の味に似ていた。僕は一つを食べてしまうとすぐに二つ目に手を出した。オニギリの中には、何も入っていなかった。

 ああ、同じだ、と僕は思っていた。小学生の頃、僕は、今と同じように火葬場の控室で、友達が灰になるのを待ちながら、こうして、淡い塩味のオニギリを食べていた時があった。あの時、僕のまわりにいた同級生は、声をあげて泣いて、泣いちゃいけないとお互いにいましめ合いながら、オニギリをほおばり、そしてすぐに又泣いてしまった。あの時、僕は泣いただろうか………。

 僕は二つ目のオニギリを食べ終わると、腕を組んでうつむいた。僕は、自分の態度が芝居じみていると思っていた。そして、ここにいる誰もかれもが芝居じみている、いや、芝居じみざるを得ないのだ、と思っていた。

 東横線のH駅で下車し、改札口を出た時、一団の男女学生が僕の目に入った。彼等は、決して楽しげではなくむしろ沈痛というべき様子をしていたが、しかし、彼等の顔には一様に静かな興奮がただよっていて、その興奮はあきらかに、友の死という異常な事態によってひき起されたものであった。これから、友の葬儀に行く、そして、それは明らかに友情に満ちた行為だという確信が、彼等の心を緊密に結びつけていた。僕は、駅前の歩道橋を渡りながら、彼等の方を振り返った。彼等は今や、一団となって神聖な悲しみの場所へ向けての移動をはじめた。僕の直感は決して間違ってはいなかったのだ。

 それから彼等は、独りで歩いていく僕のあとから、笑い声すら交えて歩いて来た。僕はもちろん、それを当然のこととしてうけ取っていた。いくら葬式に行く途中だとて、笑っていけないという法はどこにもありはしない。

 Hの家は、僕にとっては初めてだった。僕はHとは個人的にそれ程親しかったわけではないから、その家を知らなかったのも当然ではあるが、こうしてHが死んでしまった今となっては、今更Hの家を知っても何にもなりはしないという気持ちが心のどこかにあった。Hが生きているのなら、その家のたたずまいが、Hの人柄をよりよく理解するのにあるいは役立ったかも知れないが。

 Hの家の前には焼香の列が続いた。その多くが、Hの友人達だった。僕のうしろから歩いてきた一団も今や悲しみの列に加わっている。僕は列の中に立ちながら、不思議に自分の気持ちが落ちついていることにやや不満だった。僕は本当にHの死を悲しんでいるのだろうか。そういう疑問が頭のどこかを絶えず行ったり来たりしていた。

 そんな時、押し殺されたような泣き声が耳に入った。ふと顔をあげると、黒い外套をまとった女子学生が今にもよろけて倒れそうになるのを、もう一人の女子学生がだきかかえるようにして玄関から出てくる所だった。「フン」とせせら笑うような意地の悪い感情が電光のように僕の頭の中を照らして消えた。何だいその芝居じみた大げさな身ぶりは。まるで自分一人がHの死を本当に悲しんでいるのだといいたそうじゃないか………。

 棺が狭い露地を運ばれてきた。棺を持つ人々の手に加わる重みを、自分の手にも感じた時、僕は初めてHの死を信じた。

 Hが腎臓を悪くして、あと何ヶ月命がもつかわからない、ということをMからの電話で聞いたのは、一体いつだったのだろうか。僕はMにじゃあ見舞に行ってくるよといったものの、いざ行こうと思ってもなかなか腰が上らなかった。数ヶ月先に迫っている死を病院のベッドの上で待っている友人に、どんな見舞の言葉があるというのか。そんな友人の姿を見ていることが僕に出来るだろうか。僕はたまらない気持ちだったが、しかし、行かねばならないのだと自らを説得して、ある日(それがいつだったかもわからない)横浜市大病院に向った。

 パイナップルのカン詰を二つ買って、巨大な病院の五階だったか六階だったかとにかく上の方の階のHの病室に入った時、Hは同室の人と将棋をさしていた。僕が名前を呼ぶと、Hは意外と元気に振り返って、僕だと認めるとニッコリと嬉しそうに笑った。それからHはベッドの上に上半身を起して僕と話をした。高校時代のHは、割合ガッチリとした体躯をもっていたが、ベッドの上のHは、体重が半分ぐらいになったかと思われる程やせ細っていた。あの時、Hが何を語ったか僕はほとんど覚えていない。ただその話しぶりからして、Hが自分に迫っている死を知っていたことは僕にもハッキリとわかった。そして、その死に冷静に立ち向おうとしているHの心も。病室の大きなガラス窓の向うには、横浜のこみいった街並が、白っぽいほこりのような空気の上に沈み、その上に赤茶けた夕日が、乾いた光を拡散していた。

僕は、Hに又来るからといって別れを告げた。しかし、僕は二度とHを訪ねなかった。いや訪ねることができなかった。病院は近かったし、僕に暇がなかったわけではなかったからその気になれば何十回でも訪ねられたはずだ。しかし、そうすれば、それまでそれ程親しくなかったHと、急速に親密になってしまうだろう。そしてその次に来るのはHの死。僕は、そういう成行に耐えられそうもなかった。それはいかにもエゴイスチックな考え方だった。Hが自らの死に耐えていた以上、僕が友人の死に耐えられないはずはなかっただろう。死を前にした友人とともに、その死に耐えるのが真の友情というものだろう。だが僕はそうしなかった。僕は逃げてしまったのだ。

 人が死んでしまってから、その人の為に涙を流すこと程容易なことはない。困難なのは人が死ぬまで、その人とともにあることだ。

 その困難から逃避した僕が、火葬場の控室で、自分の悲しみに確信が持てなかったのはむしろ当然のことだった。僕に悲しむ権利などありはしなかったのだ。Hの棺が火葬場のカマの中へ滑り込み、重く閉ざされた扉の前で、焼香をする時、僕は思わず涙を流してしまったけれど、Hはそんな僕をどういう気持ちで見つめていただろう……。

 Hの家の前の露地を抜けると舗装された坂道がある。その坂道にとまっている霊枢車に棺が収められたあと、Hの父親がお礼のあいさつをした。その父親のかたわらで、Hの妹がややアゴを突き出して(それは坂道の傾斜がそう感じさせたにちがいない)顔中を涙で濡らして泣きじゃくっていた。僕は火葬場からの帰り、電車のドアに背をもたせかけながら、何ということもなしに、頭に浮かんでくるその妹の涙で濡れた顔をじっと見つめていた。

(1974)



Hは高校で2年後輩でした。横浜浦舟町の市大病院でのHとの対面はいまでもはっきりと覚えています。淋しそうな笑顔が忘れられません。少なくともあと何回かお見舞いに行ってあげたかったなあと悔やまれます。それから15年後、ぼくの父がやはりこの病院で息を引き取りました。人の死から逃げていられるのは、やはり若いうちだけなのだというのが実感です。あとは修羅場です。それでも、人間は生きていけるのです。すごいことです。

(1998)