光と闇の中で


 あの何もかも未分化で混沌としていた時代を思い出すのは、今の僕にとって、必ずしも愉快なことではない。そしてその事は、今の僕が未だあの時代を完全に脱け出せないでいることの何よりの証拠である。「青春」とか「愛」とかいったおよそ気障で鼻持ちならない言葉を何の恥じらいもなく堂々と使うことのできる唯一の時代。そして、愚にもつかない観念的な議論に夢中になることのできる唯一の時代。果してその時代は「よき時代」と呼び得るものなのだろうか。飛び立つような憧れと、焼けつくような欲望。その中で、喘ぐように生きていく青年という生物は、果して幸福な生物なのであろうか。

 僕の「青春」は決して激しいものではなかった。それは貧しく物語に乏しい「青春」だった。けれど、そんな「青春」からでさえ、小さな物語りはいくつでも紡ぎ出されるものなのだ。僕は嘘っぱちばかり語ることになるだろう。けれど、その嘘っぱちを言う僕が、未だ「青春」の住人であってみれば、そこに語られることはやはり「青春」の物語であるには違いなかろう。

「女の子とつきあいたいなあー」

 肺の空気を全部吐き出すような深い溜息とともに、闇の中にポッカリ生まれたKの言葉に僕とSはただ黙ってそれを心の中で反復する他のすべがなかった。「女性と男性とは肉体的にはもちろん、精神的にも根本的相違がある。従って未熟な年代にいる我々に於ては男性と女性が完全に理解しあえるという事はあり得ない」といった様な学校の教えに心から共感していた僕の中学生時代。その中学生時代がその時、取り返しのつかない様な後悔の念とともに一度にどっと思い出されて来た。そうじゃない、そんなことじゃないんだ。僕は必死になって心の中で叫んだ。理解しあうことが可能か不可能か、そんな事が問題なんじゃあない。恋愛は結婚を前提としていなければならないなんていう論埋が問題なんじゃあない。僕たちはただ、やりきれないこの年代に、やりきれない程美しい思い出を持ちたいということだけなんだ。

 僕は多く言葉を持たなかった。だから、僕はいったい自分が何を願い欲しているのか認識できなかった。そして結局は僕の気持を表現するにはKの言った言葉しかないと思うのだった。けれども、あまりにぎこちないその言葉に、腹立たしい思いをせずにもいられなかった。そして、次第に僕の意識は、頭の中に浮んでくる野外スケート場での華やかな女の子の様々な姿に移っていった。女の子達は、色とりどりの木の葉のようにヒラヒラ舞い、感じやすい梢のように多く笑った。女の子達の透明な健康さは、一層僕たちを弱々しく病的にみせるのだった。

「ボクハ女ノ子ト口ヲ聞イタコトガナイ」

「ボクハ女ノ子ト話ヲシタコトガナイ」

「ボクハ女ノ子ト……ボクハ女ノ子ト、手ヲツナギタイ……」

 冷たい露を帯びた夜気が、どこからともなく霧のように侵入して来て、僕の心もち紅潮した頬の上を滑っていった。それで、僕たちの寝ている部屋の異様な熱気が知れた。熱気は水銀のように重く部屋の下層部に澱んでいた。僕は息苦しくなってふとんの上に身を起した。熱気がふとんの中から糸をひいて舞い上った。僕の右側にKが、その向う側にSが横になっていた。二人とも目をパッチリとあいているのが暗闇をすかして見えた。僕はそれを、密林の熱という熱を吸収しつくして冷く輝いているヒョウの目のようだと思った。夜の闇の向う側に、小さな波がヒタヒタと寄せたり返したりするのが聞こえていた。

「あの娘どうしたろう」

妙に上ずって、かすれた声がつぶやいた。

「え?」

と聞き返した僕の声もかすれていた。しばらく返事がないので、僕の声が空しく闇の中で漂った。今のは僕の声だったのだろうか、と僕はいぶかしがった。Sの声がいう。

「君が、ほら、話してたじゃないか」

「あ、」

僕はかすかなめまいを感じて、どさりと枕の中に顔を埋めた。足首から足の裏にかけてスケート靴にしめつけられているような疲労感と、膝のあたりの妙に不安定な感覚とが突然よみがえった。それと同時に、左腕に細い五本の指がくっきりと感じられだした。頭の中では木の葉のようにヒラヒラ舞っていたスケート姿の女の子達が、風車のようにとめどなく回転を始めた。と、一人の少女がすべり台を降りて来るようにスーッと近づいて来て、その顔が僕の視野いっぱいに拡がると、白い歯を見せてニッコリ笑った。次の瞬間、「アッ」という短い叫び声をたてて少女は僕の足元に崩れた。

「ごめんなさい」

と少女は小さく言って、僕の腕にシッカリとつかまった手を、まるで熱いものでもさわったかのようにすばやくひっこめると、何か言訳でもするように頬を赤らめながら微笑してみせた。僕もあわてて微笑を作りながら、

「いいえ」

と言って、その声がおかしいくらいに上ずっているのに気がついた。「ごめんなさいね。つい油断してしまって」

少女は微笑したままそう言った。

「いいえ、いいんです」

と言って、しばらく僕は少女の後にそびえている富士山の光がまぶしくってしょうがないといった様なふりをしながら、少女に言うべき言葉を懸命にさがし求めていた。少女は僕が目を細めて自分の後の方ばかり見ているので、そこに立ち止っていることができなくなりだした。

「じゃあ、私、又、すべりますから」

少女はそう言うと、足を一歩前に踏み出しながら、何か話をしてくれればすぐ立ち止るというふうなあいまいなかっこうをして、僕にもう一度視線を投げかけた。僕はただニッコリ笑って見せるのがせいいっぱいだった。少女は強く氷を蹴るとたちまち遠のいていった。そのとたん、僕の舌の上に洪水のようにどっと言葉が押しよせて来た。僕はその言葉をわけもなく舌でころがしながら、また微笑の残っている顔を無理にでも怒ったような顔に変えようと懸命になった。僕の腕に少女の五本の指が一本一本一区別できる程の妙に生々しい感覚が、まるで烙印を押されたかのように残っているのに気づいたのはその時だった。

「どうだい調子は」

と後からSが声をかけた。Sは氷の上に静止しかねて、僕の肩につかまりながら息をはずませていた。その肩に置かれたSの生温かいグローブのような手を、何だか非常に気味悪く感じながら

「だいぶ上達したよ」

と僕は言った。そして、またまぶしそうに目を細めて富士山の方を眺めていた。

「いい眺めだなあ。大陽があっち側にあれば富士山もよく見えるんだけどなあ」

とSもまぶしそうに手をかざしながら言った。そう言われて、僕は富士山が逆光の中にあることに初めて気がついた。

「さっきね、女の子が、僕のすぐそばでころんじゃってね、僕、とっさに手を貸してあげたんだ」

とSが恥しさと誇らしさとで顔を赤らめながら言った。そして、どうしても話さずにはいられないというふうに続けた。

「女の子の手って柔らかいんだねえ。思い出しても気が遠くなりそうだよ。本当に考えられない位柔らかいんだ」

僕はさも感心したように

「ふーん」

と相槌をうちながら

「僕だって」という言葉が今にも口にのぼりそうになるのをこらえていた。君だけじゃないんだ。僕だってちゃんと知っているんだ。そんなことを心の中でつぶやきながらも、だんだんとそんなことで議論するのが馬鹿らしくなってくるのを感じながら

「赤ん坊の手と、どっちが柔らかい?」

とSにたずねた。Sは「ウーン」とうなりながら、目をつぶって手のひらに再びさっきの感覚を呼びさまそうと懸命になるのだった。

 富士山は鋭い逆光の中に溶解していた。空はジュラルミンのように激しく輝き、富士山はその中で赤銅色の影となって陽炎のようにゆらゆらゆれた。輪郭のあいまいさが、富士山を異様なまでに巨大にみせていた。小さな鳥が声もたてず、小石のように光の中に沈んでいった。枯枝は鋼鉄の針金でできているかのように、光の中に突きささったまま完全に静止していた。

 少女は凍りついた空気を引き裂いて滑る。少女の滑るあとを光の渦が追いかける。少女の角ばった肩が振子のような正確さで右に左に揺れる。少女の白いスケート靴は残酷に氷を削る。おそらく少女は僕の指も何くわぬ顔をして切断するだろう。氷の面が僕の血で真赤に染まるのを見て、少女は夕焼けのようだと言って笑うだろう。少女は七色のスペクトルの中で舞い跳ねる。白い歯は鳩のように。輝く瞳はみちあふれる光の中に一筋の運河をひいた……。

 僕は詩ともつかないこんな言葉をもてあそびながら、少女を追った。目で。スケートで。少女を追い抜く。すると又少女が抜きかえす。少女の後を少女と同じように足を出して滑る。少女は振り返って笑う。僕は知らんぷりをして少女を追い抜く。その時、サッと香る少女のあまずっぱい匂い……。

 Kの転倒は、ほんの一瞬の夢の中のような出来事だった。日も西に傾き、人影もまばらになったスケート場で、僕より三十メートル程前を気持よさそうに滑っていたKが、ふと何を思ったのか片手を上げて僕の方を振り返った。そのとたん、ふわりとKの体は横になった形で空中に浮き、そのまま静かに氷の上に落下した。「アハハハッ」という笑い声が僕の口をついて出た。が、その声が僕の耳に入るより早く、僕の顔から笑いの影は消えた。Kは氷の上に倒れたまま動かなくなった。僕は夢中で氷の上を駆けた。SがKの耳もとで何やら懸命にどなっていた。Kの青白い顔がピッタリと氷の面についていた。小さく切れた額に血がにじんでいた。Kは死ぬのではないだろうかという不安が心の隅にポツンと生じたかと思うと、それは入道雲のように際限もなくふくれ上がり、すぐに僕の頭をいっぱいにした。膝が細かくふるえ出し、それが僕に骨にしみ通るような寒さを気づかせた。

 医務室で頭に白い包帯を巻かれたKを、Sと僕とで両側から支えるようにして駅へ向かうゆるやかな坂道を下っていく時も、僕の頭の中はKの死への不安でいっぱいになったままだった。坂道に促されるように歩きながら、ここへ来る時の僕たちの華やいだ笑顔と軽快な足どりを悲しい気持ちで思い出していた。光は既に去っていた。日が没したというのではなく、厚い雲が夕暮を早めたのだった。

 僕は何よりもKの笑顔を求めた。Kの笑顔が見られるなら何をしてもいいと思った。けれどKは笑わずに口を固く結んで歩いていた。

 僕はふとこんな考えにとらわれた。もしKが女なら、僕はKをしっかり抱いて慰めることができるだろう、またもし僕が女ならKの痛む所に美しい柔らかい手をのせることもできるだろう。けれど、Kは独りで痛みと不安に耐え、僕は独りでそういうKに耐えねばならなかった。肉体によって慰めあえないということは何とつらく淋しいものなのだろう。僕は心の中に雲のように湧き出る「優しさ」をもてあましていた。

 薄暗い駅の待合室の片隅に、そこだけぼんやり白くけぶっているような少女の姿を僕が見出した時、崩れた十字形にひびのはいった待合室の大きなガラスには、灰色の雨が激しく打ちつけていた。少女の顔は影におおわれて見えなかったが、それはまさしくスケート場で僕の腕につかまった少女だった。けれどスケート場で見た、あの輝くような快活さはそうして独りで坐っている少女のどこにも見つけることはできなかった。そればかりか少女の周囲には朝もやのように淋しさがたちこめていた。若い人達のグループばかりの待合室に、独りで坐っていることは多少とも奇異な印象を与えるものなのに、その少女にはそれが一番ふさわしいようにさえ感じられるのだった。

 僕はふとその小さな膝の上に置かれた手に白い包帯がぶ厚く巻かれてあるのに気づいて思わず声をあげそうになった。その時、僕の腕に突然あの五本の指の生々しい感覚がよみがえった。転倒した少女の指の上を、あの銀色の刃物が横切り、一本あるいは二本、少女の指が飛び散ったのに違いない。僕は青い氷の上を流れる少女の水っぽい血を想像した。それは僕にとって一種の悦楽でさえあったのだが、僕はそこからすぐに日常釣な感情に舞い戻ってしまわずにはいられなかった。僕は考えた。少女がさっきから見つめていたのは僕でもSでもなく、頭に白い包帯を巻いたKなのだと。お互いにケガをしているということで、二人は既に心のつながりを獲得したのだ。そして、Kは今目を閉じているが、心の中では少女に向って叫びつづけているのだ、と。不幸な者を慰めるのは幸福な者ではない。貧しい心は貧しい心によってしか慰められない。僕は突然激しい嫉妬の感情におそわれ、きびしく少女をにらみつけた。少女はその僕のきつい視線に気づくと電流にでもふれたようにハッと身ぶるいすると、そのままうつむいてしまった。僕はそんな残酷な自分の仕打ちに思わず涙ぐんでしまった。

 雨はいつしがあがり、雲間から、もう沈もうとする太陽の最後のあがきのような赤い光が一瞬僕たちの頬を染めた。

「僕は君が死ぬんじゃないかと思った。そう思うと、それだけでもう涙が出てきてしょうがなかった」

「倒れた時、突然頭の中がカラッポになったから、すぐに掛算の九九をやったら、タイプライターのような数字が頭の中に列を作って走った」

「死んだら、どうなるのだろう」

「永遠の闇」

「ちがう。永遠の光」

「なに?エイエンって」

「終わりのないこと。失われることのない時間。失うことのない状態」

「天国」

「僕は天国なんて信じない」

「死んだらその時から全くの空虚。そんなことがあり得るだろうか。そうだとしたら、生きていることは全く無意味だ」

「死んだらどうなるか僕は知らない。でも生きてるってことがこんなにも素晴しいのに、何でそれが無意味であり得るだろう」

「…………」

「あの女の子」

「きれいだった。かわいかった。抱きしめたかった」

「あの子は灰色のセーターを着ていた」

「ちがう。白だ」

「あの子は泣いていた」

「ちがう。輝くように笑っていた」

「あの子は孤独だった」

「ちがう。あの子はこの上なく陽気だった」

「あの子は、あの子は、指をなくした」

「指を?」

「なくしたんだ。白い包帯が痛々しかった」

「あの子は白い手袋をしていただけだ」

「いや、包帯だった。あの子は泣いていた」

「あの子は、君の名前と住所を僕にしつこく聞いた。僕は教えた」

「うそだ。あの子は君を愛しはじめていたんだ」

「愛。愛。愛……」

「あの子は、指をなくし、白い包帯をして、そして、君を愛した」

「あの子は、細い指に、白い手袋をはめて、君の言葉を待っていた」

「言葉。言葉。言葉」

「愛の。愛の。愛の、言葉……」

 湖畔の宿の静かな夜。遠くできこえていた岸辺にたえまなく打ち寄せる波の音を、僕は今でもはっきりと思い出すことができる。それから押し殺したような、ミミズクの鳴き声も。一寸先も見えない青い闇の底で、僕たちによって語られたことは一体何だったのだろうか。僕たちがその夜語ったということは、波が岸辺に打ち寄せたり、ミミズクが夜通し悲しく鳴くのと同じように、豊かな自然の営みでなくてなんであったろう。僕たちは、あとからあとから言葉をみつけてきてはそれを闇に向かって投げた。海に向かって石を投げるように。それを闇はいくらでも黙って包み込み、優しくその懐に隠してくれた。声が闇の中でシャボン玉のように消えた。言葉は、その時、僕のものでも、Kのものでも、Sのものでもなく、ただ青い闇のものだった。

(1970)



今となっては気恥ずかしいような文章ですが、自分で書いたのだから仕方ありません。冒頭にもあるように、これは半分事実、半分フィクションのようです。「ようです」というのは、どうも、どこまでが事実であったか分からなくなっているからです。ここに出てくる「少女」が、いまでは本当に出会った少女のような気がするのです。なんだか得した気分です。富士急ハイランドは、後にも先にもこの一度きりしか行っていませんが、(多分これは高校2年ぐらいの時です)ここに描かれている光景はいまでも鮮明に心に焼き付いています。

(1998)