89 集団の中の個人

2016.6.23


 前回のエッセイで、『神聖喜劇』を読んでいると、「軍隊」と「学校」があまりにも似ていることに愕然とする、というようなことを書いたのだが、別に似ていてもいいんじゃないかって思う人もいるかもしれない。同じ「集団」なのだから、むしろ似ていて当然じゃないかと思った人もいるだろう。その辺のことをちょっと書いてみたい。

 学校というのは、生徒が集団で生活をするのだから、その生活を円滑に進めるためには、適切な「集団行動」をとることが要求される。これは公立でも私立でも、程度の差こそあれ似たようなものだ。適切な集団行動がとれずに、個々の生徒が勝手な行動をとっていたら、まともな学校生活が送れないことは確かだ。しかし、そこになにか、ぼくはわだかまりを感じるのだ。

 ぼくが最初に勤務した都立忠夫高校では、「入校期訓練」と称する、新入生の合宿があった。最初に行ったのは、赤城山の麓にある「国立赤城青年の家」という施設で、ここは国立だけあって、施設そのものが要求する日課があり、毎朝その施設を使う者全員が広場に集合して、国旗掲揚、国歌斉唱をさせられた。施設内の規則も厳しくて、廊下を走ったりすると、たとえそれが教師であっても、施設の職員から厳しく叱責された。それがものすごく嫌な感じだった。その実態は知らないけれど、まるで少年院のようだと思った。

 「青年の家」とはいっても、学校関係だけではなくて、企業の新人研修にも使われていて、ぼくが行ったときには化粧品会社の研修が行われていて、彼らは、食堂に入る際にもいちいち立ち止まって礼をし、「失礼します!」とか言わされていた。さすがに生徒にはそんなことはぼくらは要求しなかったが、企業研修も大変だなあと思ったものだ。

 赤城は、あまりに厳しい規則尽くめで、校長以下、教師たちも、すっかり嫌気がさし、その翌年は大島にある都の施設に行った。こっちは、施設が決める規則もなくて、自由だったので、気が楽だったが、それでも何かと生徒に学校としての規則をたたき込む姿勢には変わりなく、あまり気持ちのいいものではなかった。生徒はそれでも入ったばかりではあり、新しい仲間と打ち解けるいい機会でもあったから結構楽しんでいたのかもしれない。

 しかし、この「入校期訓練」という、どこか軍隊めいた行事は、いったい何のために行われたのだろうか。学校生活のいろいろな規則や心構えを、ここで一括して教えようという目的だったことはその名称からして明らかだろう。生徒の親睦をはかる、ということは二次的な効果で、それが第一の目的ならそんな名称にするはずがない。

 「集団」と「個人」ということが、そこでは繰り返し説かれた。個人は勝手に行動してはいけない。個人といえども「集団の中の個人」であることを自覚せよ、それが「訓練」の一番の眼目たる教えだった。

 人は社会という集団の中に生きているのだから、その社会の秩序を乱すような勝手な行動を慎まなければならない。それができるのが「大人」というものだ、という教えは、きわめて妥当のように思われるだろう。そのことを新入生にたたき込んで何がわるいと言われそうだ。けれども、ぼくはいつも「集団の中の個人」という言い方に違和感を感じ続けてきたのである。

 学校というところはみんなが集団で生活しているんだ、それなのに、君たちが自分勝手に行動したらどうなると思うんだ、といった叱責は、ぼくがつとめたどの学校でもごくあたりまえに行われていた。そんなに勝手なことをしたいんだったら、もう学校になんか来なくていい、さっさとやめてしまえ、なんて怒鳴り散らす教師もたくさんいた。ぼくだって、頭にきたときは、そのぐらいなことは言ったかもしれない。なるべく言いたくなかったが、言わなかったと胸を張ることもできない。

 ぼくは、学校においても、生徒は自分勝手な行動が許されるべきだと言っているのではない。そうではなくて、なぜ「学校」なのか、なぜ「集団行動」が要求される「学校」というものが「必要」なのか、ということなのだ。

 何かを「学ぶ」ためには、師につかねばならない。独学は必ずしも常に最善とは限らない。だから、誰かに師事して学ぶ機会は是非必要だ。しかし、だからといって、「規則ずくめ」「命令だらけ」の「学校」が必要だということにはならないだろう。

 言うまでもなく、「学校」は、大昔からあったものではない。日本で言えば、それが一般的になったのは、明治以降、つまりは近代の所産だ。近代の所産だからといって価値がないわけではないが、「学校」イコール「教育」でないことだけは確かなことなのだ。

 話がとりとめもなくなってきた。「集団の中の個人」というテーマに絞れば、そのフレーズに対するぼくの違和感は、常にそこでは「集団」が「個人」より価値あるものとされてきたという一点につきる。個人は集団の中に生きているのだから、集団をこそ大事にして、個人のワガママは極力控えよ、という線で常に指導がなされてきたということなのだ。

 それほどまでに大事な「集団」とは何か。その「集団」と「軍隊」にどれほどの違いがあるか。それを考えて慄然とするのだ。


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