77 ドン・キホーテの生き方

2016.3.15

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 「世界の長編小説読破計画」という一見ぶっそうな字面だが、よくみると極めて穏当な計画を自分の中でたてて、2014年の12月以来、毎日少しずつ読んできて、その結果、現在までに、プルースト『失われた時を求めて』、トルストイ『アンナ・カレーニナ』、ドストエフスキー『白痴』、ゴンチャロフ『オブローモフ』、スタンダール『赤と黒』、スタンダール『パルムの僧院』と読んできて、現在はセルバンテス『ドン・キホーテ』の最終巻まで到達している。

 読んだことは確かなのだが、その詳しい内容はかなり忘れてしまっているので、どれが一番よかったかなどと言われても、正直うまく答えられない。しいていえばやっぱり『失われた時を求めて』ということになるのだろう。ただ、この膨大な小説は、とても一度通読したぐらいでは、その話の構造すらよくわからず、どうしても、何回も精読することが必要だろうし、またそれをしたくなる小説でもある。

 それに比べて、今読み終わらんとしている『ドン・キホーテ』は、さすがに、しばらくいいやという感じで、これをかのスタンダールが何度も読み返して飽きなかったというのがどうにも信じられない思いがする。

 けれども、いろいろな『ドン・キホーテ』に関する本やら解説やらを読んでいると、そういうことだったのかとか、そう読めばいいのかとか、目を開かれる思いがして、なるほどこれはやはり世界文学の古典なのだと納得しつつあるのである。

 岩波文庫の訳者牛島信明が書いた解説の中にこんな一文があった。

 端的に言えば、遍歴の騎士が冒険を求めて旅をする『ドン・キホーテ』は、実は騎士の武勇の語られる冒険の物語ではない。ドン・キホーテが槍や太刀ををふるって敵(例えば、巨人と見なした風車)に襲いかかる場面の記述など、全体から見れば微々たるものだからである。そうではなくて、これはむしろ数々の愉快なエピソードと対話からなる書であって、ここでは登場人物がとめどもなくおしゃべりをする。無論、ドン・キホーテとサンチョの会話が中核をなすが、それと同時に、この主従を相手どって、あるいは主従をめぐって、おびただしい数の人物がさかんに言辞を弄する。
 そのなかで話し相手としての従士サンチョ・パンサの役割は(少なくとも「前篇」においては)はっきりしていて、彼は主人に対する忠告者を演じる。つまり、騎士道の妄想で頭が一杯になった主人、騎士道物語の記号でもって世界を解読しながら事あるごとに冒険を見出してゆくドン・キホーテを、現実に引き戻すという役割である。

 ここでとりわけぼくに興味深く思われたのは、最後の方に書かれている「騎士道の妄想で頭が一杯になった主人、騎士道物語の記号でもって世界を解読しながら事あるごとに冒険を見出してゆくドン・キホーテ」という箇所である。

 この小説の中では、ドン・キホーテは「狂っている」と周囲の人たちから思われていて、さんざんに愚弄されるのだが、それでもドン・キホーテは絶対にめげない。サンチョも、自分の主人の狂気を知っていて、牛島が言うようにいつもドン・キホーテを現実に引き戻そうとする。しかし、そのサンチョもいつの間にかドン・キホーテの狂気に巻き込まれてしまうのである。物語の最後の方では、ドン・キホーテの狂気は次第に治っていき、前半の有名な「風車への突撃」というような事態は蔭を潜めてしまうのだが、それはすでにドン・キホーテの最期を暗示しているわけで、ドン・キホーテがドン・キホーテらしくその魅力を存分に発揮するのは、「つまらない現実」を「騎士道物語の記号でもって世界を解読しながら事あるごとに冒険を見出してゆく」ところにある。ドン・キホーテにとっては、ちょっとした行為も、みな「冒険」となるのである。

 冒頭近くの「風車」の件も、丘の上に立っている風車を巨人だと思い込んでしまい、ひとりで風車に突撃をして、その羽にあたってふっ飛ばされて大けがをしてしまうというだけの、単なる「狂気の沙汰」にすぎないのである。しかし、その「狂気の沙汰」がその後も一貫して演じられ、文庫本で6冊読んでも、似たような「狂気の沙汰=冒険」がくり返されるとなると、これは、もう「狂気の沙汰」ではすまされない、何か異様な迫力というか説得力をもってしまうのだ。

 で、ふと思ったのだが、実におおざっぱで乱暴な言い方ではあるが、キリスト教の信仰というものも、これに似たところがあるのではないかということだ。つまり先ほどの牛島の言葉を借りて言い換えれば、キリスト教の信者というものは、「聖書の記号でもって世界を解読しながら事あるごとに冒険を見出してゆく」者のことではないかということだ。

 ここで言う「冒険」とは、「意味ある行為」に置き換えてみれば分かりやすい。

 例えば聖書には、「この小さき者にした行為は、私にした行為だ。」というようなイエスの言葉がある。「小さき者」「貧しい者」「差別される者」などはみな「聖書の記号」では、「イエス」につながると言えるだろう。だとすれば、世界の中に無数に存在するそうした人々への共感とか、寄り添いとか、奉仕とかいった人間の行為は、「信仰的に意味ある行為」となるだろう。そして、時にそうした行為は、世俗からは「狂気の沙汰」と嘲られることもあるに違いない。そうかんがえてみると、ドン・キホーテの生き方は、信仰者の生き方と非常に近いということができるように思えるのだ。

 ドン・キホーテといえば、現実をみずに夢の世界を信じて向こう見ずの冒険をくり返す愚か者の象徴のように見られがちだが、実は、どんなに周囲からバカにされようと、愚弄されようと、自らの信念によって、現実そのものを変容させてしまう意志を持つ者のことではなかろうか。

 もっとも「現実の変容」といっても、客観的な現実が変容するわけではない。それはあくまで個人の心の中での変容に過ぎないことも事実である。けれども、それなら「現実」とはなんだろうか。「客観的な現実」というものは確かに存在しているのかもしれないが、ぼくらが生きるのは、実はその「客観的な現実」の中ではないのではないだろうか。

 たとえば大学入試に落ちたとする。それは動かしようのない「客観的な現実」だ。自分の頭の中で「受かったことにする」ことなんてできない。けれども、ぼくらがその現実を生きるとき、単なる「大学入試に落ちた」というだけにとどまらない。「これからは来年に向けて再起動しなくてはならない」という「現実」だと、自分の頭の中で「変容」させる必要がある。それをしないで目の前にある「客観的な現実」にとどまっているかぎり、「落ちてしまった」という「事実」にうちひしがれていることしかできないだろう。

 ドン・キホーテなら、「そうか、これは騎士たる拙者に神が与えてくださった試練なのだ。闘わねばならない。」と思うだろう。更には「拙者が読んだ騎士道物語にはこれにまさるとも劣らぬ試練に雄々しく立ち向かい、名声を獲得した騎士がごまんとおる。」と思うだろう。

 ドン・キホーテはどんな窮地に陥っても希望を失わない。それは、彼が読み浸った騎士道物語に、「前例」がいくらでも見いだせるからだ。そのことの大切さを、現代に生きるぼくらも、もういちど確認しなくてはならないような気がしている。

 


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