78 「痛みと苦悩」そして「希望」

2016.3.23

★画像付きブログで読む


 先日、矢代静一の『夜明けに消えた』の舞台をみることができた。キンダースペース主宰の原田一樹の演出で、スターダス21の研修科1年の終了公演だった。当然、役者たちはまだ若く、演劇の経験も浅く、演技も未熟な点も少なくなかったのだが、演出家の技倆故かそれに必死に応えようと努力した役者たちの故か、非常に感動的な舞台になっていた。

 この芝居の初演は1968年で、ちょうどぼくは大学1年生。その初演の舞台を確かにぼくは見たという記憶がある。けれども、その時うけた印象はまったく残っていない。何年か前、彩の国さいたま芸術劇場で、原田一樹演出・瀬田ひろ美出演で上演されたのだが、その時は、なぜか見逃してしまったのだった。上演される機会の少ないこの戯曲は、矢代静一のカトリック信仰に深くかかわることだけは覚えていたので、今回、何はともあれ見にいったのだった。

 ほぼ50年ぶりに見たこの芝居は、矢代静一がどのようにカトリック信仰を理解しようとし、どのように入信するに至ったかを、まるで私小説のようにこと細かに語っている芝居なのだと分かった。事実、早くからカトリックに深い思い入れがあったにせよ、この戯曲の完成後に矢代は受洗している。

 ポイントは二つあって、「神」あるいは「キリスト」を、どのようにとらえるかという点がまずひとつ。「ノッポ」は、キリスト教に反発しその教えを受け入れようとしないが、やがて、どうしてもキリスト教から離れられなくなる。それは、神やイエスを信じた、というのではなく、「神が、心の中にすみついてしまった。」からだという。これは非常に重要なことで、信仰というものが、「神」や「イエス」を自分の外に「存在」するものとして、それを「信じる」という行為ではなく、自分の心が「神」や「イエス」によって変容していることを受け入れるということなのだということが示唆されている。

 「ノッポ」は、言葉を選び、言葉を内部から絞り出すように、信仰告白をするのだが(ここの演技は素晴らしかった)、それは、「小さきものは神なのだ。」という一点に集約されていく。幼い子どもが殺されようとしているとき、だれだってわが身を顧みずに救おうとするだろう。それは「幼い子ども」が、まだ人間にはなっていない「神」だからだ、というのだ。

 孟子もこれと同じ例をあげて、どんな人間でも、子どもが井戸に落ちようとしていたら手を差し伸べるだろうと言い、そこに人間の「性善」の根拠をみている。キリスト教は、そこから一歩進んで、「なぜ救おうとするのか」と問い、それは人間にはもともと「良き心」が備わっているからという理由ではなくて、「幼い子」は、実は「神性を宿している」からなのだというのである。

 「幼い子」が「神性を宿している」なら、人間はもともと「神」を宿していることになる。人間は「神の似姿」として創られたと聖書にあるとおりである。それならもう、「信じる」も「信じない」もない。人間がどうあがこうと、人間はすでに神によって、あるいはイエスによって、「救われている」存在なのだということになる。

 しかし、それなら、信仰は、何もしなくても自動的に人間に与えられていることになって、何の苦労もないはずではないか。それなのに、どうして人間は、信仰をめぐって、あれこれと苦労することになるのだろうか。

 そこにもう一つのポイントがある。それは、もともと神に愛され、イエスによって救われている人間は、なぜか、神を裏切る存在だということなのだ。その裏切りにはいろいろな形がある。この芝居では、有名な「ペトロの否認」の話が出てくる。イエスにもっとも愛され、もっとも信頼の厚かったペトロは、イエス処刑の日、イエス自身によって「あなたは夜明けの鳥が鳴く前に三度私を否むであろう。」と予言される。ペトロは懸命にそんなことはないと否定するのだが、実際には、その通りになってしまう。ここにキリスト教のいわば「芯」のようなものがある。

 『夜明けに消えた』においては、聖女のようにイエスの教えて従う「ぐず」と呼ばれる女は、火あぶりの刑の最中に「熱い! 助けて!」と叫んでしまう。これもまた「裏切り」である。心は信じていても、肉体が裏切るのだ。この「ぐず」は、被差別部落出身の「熊」と呼ばれる男を、心では受け入れながら、やはり肉体が拒否してしまうことで、「熊」を裏切り、「熊」はそれまでの信仰を捨てて、キリスト教迫害者へと変貌してしまう。

 すでに「救われている人間」は、なぜ「裏切る」ことになってしまうのか。これが人間の最大の問題だと言えるだろう。けれども、この「裏切り」を、キリスト教では、けっして排除しない。そればかりか、何度も何度もその「裏切り」をテーマにして、「キリストの受難」を語りついできたのである。

 『夜明けに消えた』を見た数日後に、栄光学園の聖堂で聴いたバッハの『マタイ受難曲』の前半で、もっとも感動的なのは、やはりこの「ペトロの否認」の部分だった。復活祭を前に、繰り返し上演されてきた「受難曲」あるいは「受難劇」のテーマは、もちろんイエスの復活だが、それ以上に心に染みるのは、このペテロの裏切りであり、ユダの裏切りである。そればかりではない。イエスの弟子のほとんどは、イエスの処刑の場から逃げてしまうのである。

 なぜ、考えようによっては「汚点」ともいえる「裏切り」を、キリスト教ではこんなにも大事にしているのだろうか。人間は、そうした愚かな弱い存在だが、それにもかかわらず神は、イエスは、人間を愛しておられるのだ、ということを強調したいのだろうか。もちろん、それもあるだろう。しかし、スペインの宗教思想家ウナムーノについての論考の中で、佐々木孝は次のように述べているのだ。

 

〈ウナムーノにとって、人間には二つのタイプがある。すなわちありのままの自分に満足する人間と、おのれを不滅のものにしたいと希求する人間とである。それは日常的、たそがれどきの、外見だけの人間と、悲劇的で実体的な人間である。すなわち、自己の永続性という問題に無関心をよそおい、苦悩を避け、自己の存在の深みに生きようとしない非実体的な人間の生と、自己の存在についての悲劇的感情を有し、自己の永続のために生身を賭けて苦闘する真正な人間の生である。
 真正な生が自己を表わす二つの形態、それは痛みと苦悩である。現実は苦しむことにおいて十全に所有される。われわれの生が一過性のものであるという事実によって喚起される苦痛は、意識の最高形態である。そして苦悩は苦痛の極致、もしくは徹底化であり、生の悲劇的感情が湧き出てくる泉である。
 生は過程にある現実、転変である。生は夢もしくは現実ごときものである。そして今まさに過去の薄明のなかに消失してゆくその現在の瞬間を、絶えず超え出ることによって生は成り立つ。すなわち存在は、現実的に《ある》ことではなく、《あり続けよう》と欲することなのだ。〉『ドン・キホーテの哲学』134p 佐々木孝・講談社現代新書

 

 ここにある「真正な生が自己を表わす二つの形態、それは痛みと苦悩である。」という一文は重要だ。

 「裏切り」はもちろん「痛みと苦悩」を生む。その「痛みと苦悩」の中でこそ、人間にとって信仰は「生きたもの」となる。あるいは切実なものとして「獲得」される。

 幼稚園の子どもが、「この世界を創った神様」を素朴に信じるようには、ぼくら大人は、あるいは現代人は、神を信じることなどできはしない。NHKの「のど自慢」で、「死んだおじいちゃんに届けたい」といって歌を歌って、「届いたと思います」と言うのは勝手だし微笑ましいが、それならほんとに「死んだおじいちゃん」は「天国」にいるのか? と聞かれて、「はい」と自信を持って答えられる大人は、たとえキリスト教信者にさえいないだろう。

 死んだ後のことなんか、誰にも分かりはしない。けれども、「死んだら灰になる。それだけだ。」で済まされる問題でもない。そうかといって、キリスト教の洗礼を受ければ、天国に行けるチケットがもらえるわけでもない。何もかも分からないのだ。

 けれども、そういうはかなくもろい人間の生を生きるぼくらは、何とか永遠に生きたいと願わずにはいられない。

 佐々木孝は、ウナムーノの言葉を借りて言う。「生は夢もしくは現実ごときものである。そして今まさに過去の薄明のなかに消失してゆくその現在の瞬間を、絶えず超え出ることによって生は成り立つ。すなわち存在は、現実的に《ある》ことではなく、《あり続けよう》と欲することなのだ。」

 つまり、「死んでも生き続けよう」と欲することこそ、ほんとうに「生きる」ということなのだ。ウナムーノは、更に過激に訴える。「信じるとは、神を創ることなんだ。」と。佐々木孝は、それは正統的なキリスト教にとっては危険な思想だというけれど、そうでも考えない限り、この現代という時代で、「神を信じる」ことなどできないだろう。

 「痛みと苦悩」は、人間がもっとも避けたいことだ。「痛みと苦悩」のない日常の中で、ぬくぬくと生きていたいというのが、ぼくのような臆病な人間の切なる願いでもある。けれども、よく考えてみれば、そうした日常は、いつまでも続くわけではない。ウナムーノ風にいえば、「日常的、たそがれどきの、外見だけの人間」ということになる。そうした人間である時間も悪くないけれど、やがて早晩「苦しみ」はやってくる。そのとき、「生が一過性のものであるという事実によって喚起される苦痛は、意識の最高形態である。」という断定的な言葉は、どれだけぼくらの励みになるかしれない。

 仏教的な無常観を何となく情緒的に受け入れて、「むなしい」と嘆くより(それを否定するつもりはない。むしろ、ぼくはそんなふうにしか生きていないのだ。でも。)、「おれは死なない!」というドン・キホーテ的な冒険主義・ロマン主義に、希望はある。いや、そのようにして「希望」をこそ「創って」いかねばならないのだ。

 


Home | Index | Back | Next