73 違いの分かる男

2016.2.2

★画像付きブログで読む


 何十年前のことだっただろうか、ネスカフェのCMで「違いの分かる男のゴールドブレンド」っていうコピーがあった。遠藤周作なんかもこれに出演していたのだから、相当昔のことだが、このコピーは今でも気に入っていて、何かというと「違いが分かる」ことが大事なんだと、授業でも言ってきたような気もするし、その手のエッセイも何度か書いたような気がする。

 けれども、昨今では、どうして「違いが分かる」のが「男」なのか、と文句がでそうな雰囲気があって、そう考えてみると、なぜこの場合「男」だったのだろうかと疑問にもなる。「違いの分かる女のゴールドブレンド」だってよさそうなものなのに、なぜ「男」なのか。その頃、コーヒーを飲むのは男が多かったのだろうか。紅茶というと、女の飲み物という感じも確かにあるし、紅茶専門店には圧倒的に女性が多い。とすればコーヒーは男の飲み物だったのかもしれない。

 そういうこともあるかもしれないが、どうも男というのは「違い」に鈍感なのではないかと最近思うのだ。近ごろの若い男は、たぶん、そんなことはないのだろうが、ぼくらの世代、(言いたくないが)「団塊の世代」などは、いろいろなこと、特に食べ物に、あんまり「違い」を感じる余裕もなく、ただガムシャラに生きてきたのではないかという気がする。

 昭和20年代の前半なんて、戦争が終わってまだ数年といったところだから、飢えた経験こそないけれど、それほどウマイものを食べて育ってきたわけじゃない。給食に出たクジラの味が忘れられないなどとオジサンたちは言って、世界のヒンシュクを買いながらも嬉しがってクジラステーキなんかを高い金出して食べてるけれど、そんなにウマイもんじゃない。ただ、あの当時ウマイと感じただけの話で、センチメンタルな味覚にすぎないのだ。

 ぼくらは(と言って一括りにしてはいけないけど)、ほとんどマズイものばかり食べて育ってきたから、ウマイモノが出現したときの驚きというか、喜びというか、それはもう大変なもので、ぼくの場合でいえば、フランスパン、トワイニングの紅茶、ピザ、しゃぶしゃぶ、クリームコロッケ、などなど枚挙に暇がないほどで、それらを初めて食べた時のことを今でも鮮明に思い出せるほどの衝撃をもって体験してきたのである。しかし、例えばピザにしても、その頃は一種類でもう満足してしまっていたわけで、その後続々と出てきた数限りないピザのバリエーションをいちいち楽しんで味わっている余裕なんか、少なくともぼくにはなかった。

 だから、その当時の、ごく一般的な男は、たぶん「違い」なんて分からなかったんじゃなかろうか。それに対して、女は、たぶん、「違い」がよく分かっていて、自分で作る料理にも自分なりの味を出そうと努力して作ってきたわけなのだろうが、なんのことはない、男の方はその「違い」なんか目もくれずに、さっさと食べて感想のひとつも言わなかったに違いない。男たるもの、食べ物にいちいち感想などを述べるものではないという武士道だか何だかしらないけれどヘンテコな価値観を心のどこかに持っていて、それでいいと思っていたのではなかろうか。少なくともぼくの場合はそうだったような気がする。

 そういう中に投じられた一石が、「違いの分かる男のゴールドブレンド」というコピーだったのではないか。つまり、これからの男は、たとえインスタントコーヒーだろうと、その味の違いに敏感じゃなきゃだめだ。そういう鋭敏な味覚を持つことこそカッコイイんだよというメッセージだったのではなかろうか。

 それと同じ頃だったかどうか知らないが、「男は黙ってサッポロビール」というコピーがあった。こっちの方は、それまでの男の価値観そのもの、あるいは武士道的な価値観への回帰という意味あいが強かったから、ビールを黙って飲むのがそんなにエライかという反発を感じこそすれ、ぼくにとっては、なんら新鮮なメッセージたりえなかったし、つまらなかった。

 「男」はこうで、「女」はああで、といった話は、おそらく間違いだらけ、偏見だらけだろうが、その単純さによって、話のネタにはなりやすいし、盛り上がりやすい。だからこそ警戒しないといけないのであって、このエッセイも、男女のことを論じるつもりで書き始めたのでは実はなかった。

 じゃ、何を書こうとしたのかというと、「違いが分かる」ことは、やっぱり大事だね、とか、やっぱり楽しいよね、ということだった。書こうとしたら、「違いの分かる男のゴールドブレンド」というコピーのことがつい頭に思い浮かんだので、横道に逸れてしまったというわけだ。

 どうしてそんなことを書こうとしたのかというと、最近二つのことについて「違い」が分かるようになったからだ。一つ目は、内藤晃のピアノを聞いて、ピアノの音の「違い」が分かるようになったということ。二つ目は、たくさん持っていたカメラのレンズの表現の「違い」について、すごくよく分かるようになったということ。この二つである。

 これらについてこれから書くと、「ナイツ」の自己紹介ネタ(註)みたいになってしまうので、またいつか。


(註)漫才の「ナイツ」のネタのひとつに、自己紹介をしますと言って、延々と横道にそれた話を続け、時間切れのころになって「そんなぼくたちの漫才をこれから聞いてください。」というオチになるのがある。それをぼくは勝手に「自己紹介ネタ」と言っているだけのことである。


Home | Index | Back | Next