71 「100」という区切り

2016.1.19

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 この「100のエッセイ・第10期」も、71となった。第1期から数えると、通算で971編目のエッセイとなる。1000編まで残りわずかとなってきたわけである。

 「100のエッセイ」の第1期と第2期は、自分で版下を作成して本として自費出版したのだが、第3期は版下まで作ったのだが、かかる費用のことをつらつら考えて、断念したのだった。その第2期を収めた「第2集」のあとがきに、こんなことが書かれている。

「100のエッセイ」の一冊目を出したころ、いつまで書き続けるんだと聞かれ、冗談に「どうせなら千まで書こうかなあ。」なんて言ったりしていましたが、月日の経つのは早いもの、で、あっとう間にまた百たまってしまいました。今の時点で、ホームページの連載は「第3期」目に入っており、それも二十九まで来ています。うかうかしていると、ほんとうに千なんてことになりかねません。考えてみれば、このペースで書いていくと千を書き終わる頃は六十八歳という想像もつかない年齢に達していることになります。まあ、多分どこかでやめてしまうことになるのでしょうが、とにかくたまったものはどうにかしなければなりません。幸い、「こんども本にしないの?」などと催促してくださる方もいて、調子にのってこの「第2集」を出版することにしました。

 この「あとがき」の文章を書いたのが、2002年6月1日。52歳の時だ。そうか、やっぱりその頃は「68歳」なんて年齢は、「想像もつかない年齢」だったんだと感慨もひとしおである。

 「多分どこかでやめてしまうことになるのでしょうが」と書いているが、それがそうならなかったのも不思議である。「何をやっても長続きしない」ことがぼくのアイデンティティだったはずなのに、案外そうでもないということが証明されてしまったような気もする。というか、このエッセイを意地になって書きつづけたことで、ぼくのアイデンティティそのものが変化してしまったのかもしれない。

 「想像もつかない年齢」であった「68歳」にはまだ2年あるが、予想を超えるはやさで、「1000」を達成しそうな勢いだ。あのころ、ひょっとして68歳まで生きないんじゃないだろうかとも、ふと、思ったこともある。その予感は、必ずしも「はずれ」とは言えなかった。これまでに、死んでもおかしくない状況に追い込まれたことが確かにあったわけだから。

 こうなってくると、だらだら書いてないで、さっさと「1000」に到達してしまえという気分にもなる。「1000」は無理なんじゃないかと、不安神経症的なぼくは、つい思ってしまうから、とにかく、さっさと越えてしまいたい。そのあと、しれっと、「第11期」なんて言って始めたい。いや、もう「第11期」とかいわずに、通算の数字でいいかもしれない。変な「区切り」は、精神衛生上よろしくない。ほんとは、もう、区切りをやめて、通算数字にしたっていいのだが、ここまで来て、やっぱりそれはしにくい。いちおう「1000達成!」とかいってはしゃぎたいという気持ちがある。

 しかし、思えば、誕生日などという「区切り」も、若い頃こそ祝うべきことなのだろうが、歳をとったらそれほど嬉しいものではないのだ。66だ、67だ、68だといちいち区切っていって、その果てにあるのは、「終」の一文字だ。それなら、そんな「カウントダウン」的なことはやめたほうがいい。ずるずると、いつ果てるともない日々であるかのように暮らしていったほうが気が楽というものではないか。

 そもそも「100のエッセイ」などと称して、「100」で区切っていく発想というのは、どこか律儀で、強迫神経症的なぼくの性格が生み出したものかもしれない。まあ、それは性格なのだから、今更どうにもならないわけだが。

 ところで、例の「あとがき」はこんなふうに続いている。

 古来日本では、「百首歌」というものが盛んに作られたようです。一人で百首作ったり、百人が一首ずつ作ったり、いろいろだったようですが、とにかく百首というのが一つの単位になっていたのは興味深いことです。この「100のエッセイ」はそれにならって始めたわけではありませんが、何だかそれになぞらえたくなってきました。これはぼくのしがない「百首歌」だというわけです。伝統につながっているんだという気持ちは、悪くないものです。
 ついでにいえば、ぼくはこれらのエッセイを書きながら、「枕草子」と「徒然草」をいつも意識していました。まことに借越なことではありますが、しかし、清少納言や兼好法師の遙か後方を、その影を慕ってとぼとぼと歩いているのだとぼくが勝手に考えたとしても、怒られはしないだろうと思います。

 そうだとすれば、「100」で区切ったり、まとめたりする、というのは日本の伝統でもあるということで、ぼくの性格とは関係ないのかもしれない。あるいはぼくの性格がきわめて「日本人的」だということなのかもしれない。外国文学で、こうした「百首歌」とか「百人一首」とかいった類のものはあるのだろうか。ちょっと興味深いところではある。


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