70 吉田類、火野正平、そして、ワタシ

2016.1.10

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 『吉田類の酒場放浪記』を見だしていったい何年になるだろうか。放送が始まったのが2003年らしいから、当初から見ていたら13年になるわけだが、もうちょっと後からのような気もする。下町の酒場を放浪するような趣味はぼくにはないし、出てきた酒場に行ったこともないのだが、なぜか見てしまう。家内などは、酒を飲まないのに、面白がってずっと見ている。

 見始めてしばらくしてからだろうか、彼の生まれ故郷が高知県で、しかも仁淀村だということが、「ファン」を決定的なものにした。というのも、家内の母の故郷がこの仁淀村からちょっと離れた越知町で、しかも家内の母の弟が今も仁淀村で病院をやっているからなのだ。

 吉田類は、高知県の出身であることを番組でもたびたび口にするし、高知でもレギュラー番組を持っているらしい。で、数年前に、法事で高知へ行った折、偶然泊まったホテルで、彼に遭遇した。家内は、仁淀村の叔父のことも話すし(あ、その病院、かかったことありますって言ってたらしい)、ぼくはぼくでちゃっかり二人で写真に収まったりして(その時撮った写真が残念ながらどうしても見つからない)、夫婦そろってのミーハーぶりを存分に発揮したということもあって、ますます親近感が深まったというわけである。

 しかも、実はこれがいちばん肝心なのだが、吉田類もぼくも家内も、同学年だということである。彼と話したときも、同い年だということでちょっと盛り上がったりしたのだった。ぜんぜん関係のない人でも、同い年だということになると、なぜか急に身近に感じるのはフシギなことだが、特にぼくらのようないわゆる「団塊の世代」というのは、なにか独特な「共有物?」があって、それが親しみとして感じられる原因なのだろう。

 今でも、寝る前には必ず録画しておいた『酒場放浪記』を夫婦そろって1本見るのが「しきたり」のようになっている。最近ではBS-TBSで月曜日に1回に、過去のも含め4本まとめて放送しているので、そのうちの1本を見るわけだ。当然のことながら、過去の放送分は見たことがあるのだが、「あ、これは見た見た。」なんて言いながら、それでも見る。中には、2回以上見たものもある。こういう番組で、「何回でも見ることができる」というのは珍しい。

 何を見ているのかというと、主に、吉田類の「酔い方」「食べ方」である。一昨年から去年あたりの放送分は、もう酒場に行く前から飲んでるらしくて、酒場に着いて数分で(もちろん編集されているからそれ以上に時間が経っているわけだろうが)もう泥酔状態だったりする。ヤキトンやらヤキトリを食べるときにカラシを塗る。これがいつも多い。で、辛い! といって口を押さえる。あ〜あ、とぼくらは笑う。煮込みを食べる。口に入れすぎる。熱い! といって立ち上がる。まったくどういうんだろうなあ。学習しないよね、この人。わざとやってる風でもないしなあって言って笑う。最後に、酒場を出て、感想を述べるのだが、たいてい泥酔しているので、何を言いたいのかさっぱり分からない。酒場で飲んでるときも、わけの分からないシャレを言ったりする。ナレータの河本さんが突っ込む。このやりとりも面白い。

 放送10周年のときだったろうか、どういうノリだったのか知らないが、番組でよく使われる「バッド・バッド・ウイスキー」とかいう歌を「録音」した。CDも出したらしい。これが、ものすごく下手なのだ。ほとんど音程があっていない。それなのに、ぜんぜん、気にしていない。下手でハズカシイというような謙遜の言葉も出ない。ひょっとして、けっこうイケてるって本気で思っているのかもしれない。

 そんなわけで、この人を見ていると、なぜだか、ほんとに安心してしまう。だから寝るまえには、もってこい、なのだ。

 吉田類のこうした「わけの分からなさ」が、実は、「団塊の世代」の特徴なのかもしれないと、ずっと思っている。こういう世代論は、問題を単純化するからほんとは嫌なのだが、でも、そうかもしれないと思っていることは否定できない。

 というのも、NHKの『こころ旅』の火野正平も、ぼくや吉田類と同学年なのだということがあるからなのだ。この火野正平の「わけの分からなさ」は、吉田類ほどではないけれど(つまり、番組の中では酒を飲まないからかもしれない)、なぜか、高い所を非常に怖がる。自転車で全国を巡る番組なのだが、当然、川を渡らなければならないことがある。すると、本気で怖がるのだ。その怖がりかたが面白い。自転車を降りて、押しながら、へっぴり腰で橋を渡る姿なんて、心の底から笑える。

 吉田類と火野正平の共通点は何か。それは「自分を全部さらけ出して恥じない」ということだ。もちろん、テレビ番組だから「全部」さらけ出しているわけではないはずだ。けれども、たとえば今の若い芸能人が、相当自分をさらけ出したつもりの番組をやったとしても、ここまで自然にはできないだろうと思う。どこかで、「コイツ、実は違う面、あるんじゃないの?」っていう感じが出ると思うのだ。

 さらに共通点は、その驚異的な粘り強さである。『こころ旅』などは500回を越えたし、『酒場放浪記』に至っては、とっくに500回を越えている(と思う)。偉大である。

 ま、いろいろあるわけだが、ぼくも、この二人と同い年ということで、「お仲間」のつもりでいる。彼らほど「自分をさらけ出して」はいないし、彼らほど「粘り強い」わけでもない。けれども、どこか、心の深いところで共感しているような気がしているのだ。ぼくらの心のどこかに、「時代」が落とした「影」とか「傷」のようなものがあるのではないだろうか。それが同じ「匂い」として、漂っているのではなかろうか。そんな気がしてならない。


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