69 まねっこコジキ

2016.1.6

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 去年の正月には、いったい何を書いていたのかと思ったら、「ささやかな決意」と題して、今年は「絶対無理だろうけど」と但し書きをつけたうえで「水彩画を100枚描きたい」といったようなことを書いていた。そうか、そんなことを思っていたのか。覚えていないものである。

 とはいえ、その「ささやかな決意」は、もちろんその通りには行かなかったけれど、去年は久しぶりに水彩画を描いた。それもよせばいいのに、「水曜日は水彩画」などというシリーズをブログに作ったりしたので、ある程度は続いたが、やはり30回にも満たないで休止状態になってしまった。まあそれでもやらないよりはよかったわけで、今年も途切れ途切れではあっても、続けていきたいと思っている。

 定年退職後というのは、なんともとりとめのないもので、時間の枠がないという、現役のころには夢にまでみた境遇なのだが、下手をすると、そのとりとめのなさが無限大に広がってまさに茫漠たる砂漠のような時間にもなりかねない。そうなったらそうなったでいいのかもしれないが、どうも「何かやってないと気が済まない」性格というか、そんなものがあって、それはまた、中高時代の「イエズス会教育」(最近、スタンダールの『赤と黒』とか『パルムの僧院』とかを読んでいるのだが、スタンダールはこのイエズス会教育をまともに受けたことで、とんでもない「性格」を形成したようだ。ま、しかし、その頃と現代では、まるで事情が違うから、ぼくがスタンダールのような人格形成を余儀なくされたということではない。)が災いしてか、さらに増幅されて「世のため人のために頑張る」以外に生きる目的はないというような強迫観念が心の奥深くに根付いているらしく、ぼんやりしていると、「悪いことをしている」みたいな気分になるのである。だからといって、定年後の同級生などがよくやっているボランティア活動なんかにはてんで興味がなくて、とにかく「好きなことだけしていたい」という、エゴイズムだけが強烈に働く始末なのだ。

 ほんとうに、オレはいったい何がしたいんだ、こんなことやっていていいのか、と、日々自問自答(ほんとは「自答」はない)しているわけだが、「やりたいこと」は、なぜだか知らないが、降るようにやってくる。どうしてかというと、これは少年のみぎりからの顕著なぼくの性向なのだが、「人がやっていると、それを無性にやりたくなる」のだ。昔のコトバでいうと「まねっこコジキ」だ。

 小学生のころだったか、ちょっと人まねをすると、すぐに「まねっこコジキはよしとくれ!」ってみんなはやしたてたものだ。このコトバがどこから来たのか知らないが、いつ子どもたちの中から消滅したのだろうか。これが生き生きと生きていたら、昨今の「パクリ問題」も少しは軽減していたのかもしれない。

 「まねっこコジキはよしとくれ!」とぼくが言われた覚えはないが、とにかく、人が何かやっていると、すぐに「あ、いいな。」って思って、すぐに自分もやる。

 その中で一番スゴかったのが、やっぱり昆虫採集だった。中学2年のころに、栄光学園の生物部の先輩、浜口哲一さんのご自宅に伺い、膨大な甲虫(こうちゅう)の標本箱を見せていただいた。その瞬間から、ぼくの昆虫採集狂いは始まり、高校生になるまで続いた。この1年半ほどが、ぼくの生涯のもっとも輝かしい時代だったということは、今まで何度も書いたように思う。それほど楽しかったし、幸福だった。しかしそれもたった1年半で終わってしまい、以後、趣味的な放浪生活を送ってきたわけだが、「まねっこ精神」だけは依然として旺盛で、去年の中頃から急にやり始めた「パステル画」も、岩本拓郎画伯の個展に行って(これも水沢勉さんのマネだった)、その技法を直接教えていただいたことがきっかけだった。

 そもそもこの「100のエッセイ」自体が、別役実が戯曲を100書いたって書いてるのをみて、始めたことだったのだ。

 ことほどさように、「まねっこ」であるぼくに、さて、今年は何が降りかかってくるのだろうか。それを全部「まねしよう」と思っているわけではないが、いいものは取り入れ、マネできることはマネしたい。自分の中から生まれてくるものなんて所詮たかがしれている。何をどうマネするか。そしてあわよくば、そこから発展・展開させて、自分独自のものを作りあげていけるか、それが勝負ということだろう。といっても、「勝負」するつもりなどさらさらないのだが。


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