67 「エロジイ」の真実

2015.12.12

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 昔の教え子によく言われることは、授業の内容は覚えてないけど、こんなこと覚えてます、あんなこと覚えてますってことで、その「こんなこと」や「あんなこと」は、みんな授業とは関係ない雑談で話したことばかりである。

 昔の教え子どころか、現役の頃だって、ぼくは雑談ばかりえんえんとやっていて、いったいこの人いつになったら授業をやるんだろうという不安に生徒を何度もおとしていれていたのだから、「雑談しか覚えてない」というのも、あながち生徒のせいばかりではなさそうである。もちろん「雑談しかしなかった」というわけではない。ちゃんと国語の授業もしたつもりである。いや、雑談そのものが授業なのだと、生徒に言ってきかせたこともある。

 現役最後の頃は2年続けて中学1年生を教えたのだが、中1の国語なんて何をどうやっていいのか分からないから、ひたすら面白い話ばっかりしていたら、とうとう生徒はぼくの授業を「国語」ではなくて「雑談力養成講座」と名付ける始末だった。ぼくの授業で「雑談力」が身につくなら、それはそれで立派なものだが、生徒諸君にほんとうに「雑談力」がついたのかどうかははなはだおぼつかない。

 と、また前置きが長くなってしまったが、今回は前回の「つづき」である。つまり「エロジイ」のことである。

 まったく「エロジイ」なんて失礼千万なアダナを付けたヤツはいったい誰なのだと思うのだが、ぼくらが教わった時にはもうとっくに「エロジイ」って呼ばれていたのだから、先輩の誰かであることは確かなのだ。

 「エロジイ」は、本名(というのも変だが)は小山頼彦という化学の先生だった。(「エロジイ」という失礼なアダナをここで連呼するのも畏れ多いから、この後は小山先生と呼ぶことにする。)ぼくらが教わった頃に何歳だったのかは分からないが、50代後半だったのではなかろうか。頭はすっかり禿げ上がり、後頭部に残った髪の毛も白髪で、丸いメガネとあいまって、どこか「つるん」とした印象のある先生だった。

 この先生の授業が、とにかく、「雑談ばっかり」だったのだ。確か、高1か高2だったと思うのだが、ぼくはとにかく数字に弱いのがたたって、数学はもちろんのこと、物理、化学はおろか、歴史まで苦手というどうしようもない有様だった。それでも生物が好きで、生物学の学者を志したりするという矛盾に苦しんでいたのだが、そのぼくがこの先生の化学の授業が楽しみでならなかった。

 化学の話をしなかったわけではないと思うのだが、とにかく、授業の80パーセントから90パーセントは「雑談」だった。その雑談が、ぼくのような馬鹿話ではなくて、ものすごく高度で超がつくほどマニアックだったのだ。そこに惹かれた。

 話題は、主に、奈良のことと、古書のこと、写真のことだった。奈良の築地塀がどのように作られているかを図入りで説明するかと思うと、こんどは、学校の図書館に行くとこういう本があると言って「彳●(「行」の右側の文字)氏雑纂」と黒板に書く。読めない。これは「テキチョク・シ・ザッサン」と読むんだよ。「彳●(「行」の右側の文字)」というのはね、この本の著者が「行雄」(雄だったか、夫だったか、別の字だったかは忘れた)というので、その「行」の字を分解したわけだね。「雑纂」というのは「ざっさん」と読んで、これはいろいろな雑文を収めた本というぐらいの意味だな……。

 覚えているのはここまでである。その本に何が書いてあって、何が面白かったのか、いろいろそのあと話したのだろうが、覚えていない。でも、ぼくはすぐに図書館に行って、その本を手に取ったことは覚えている。

 それよりも、「行」の字を分解して、それぞれに「読み」がある立派な漢字なのだということにいたく感動して、ちょうどそのころ、俳句なんぞをひねったりしていたものだから、「洋三」の「洋」の字を分解して「水羊」とし、俳号を「水羊子」と名乗ったりしたのだった。まあ、この俳号は、「なんだ、それは、羊水みたいじゃないか。」と友人にケチをつけられ、やめてしまったが。今なら「羊水で何が悪い。そこで人間は育つのだ。井上陽水だっているじゃないか。」って突っぱねるところだが、陽水はまだデビューしてなかった。

 化学の方は、それこそ皆目分かるものではなく、「log」が何のことか分からなくて「10gって何ですか?」って聞いたらしいから(「聞いたらしい」と書くのは、こういう事情があるからです。こちらをどうぞ!)、テストなんてほとんどあってる所なんてなかったんじゃなかろうか。分かるも分からないも、「化学の授業」があったのかも分からなかったわけで、そのことについて、後年、同級生に聞いてみると、化学の得意だったヤツは、「あれは、すごい授業だったのだ。雑談がおわって10分ほど化学について説明したんだけど、それがものすごくまとまっていて、分かりやすかった。」などとほざくのであった。知るか! そんなこと。毎回、10分しか「化学の授業」をしなかったなんて考えられるものか、と思っていたが、こうやって回想をしてい今、はたと気づくのは、結局、オレの授業のルーツは、この「エロジイ」(もとい!)小山先生にあったのではなかったかということである。

 卒業式の日、登校途中、校門の前で、歩きながら小山先生と話したことがある。話しているうち、先生は、ちらっとぼくを見て、小さな声で、「君は……あっちの人?」って聞いたのだった。先生の指は修道院を指している。(校門を入ってすぐ左手の坂を登るとイエズス会の修道院があった。)つまり、君はカトリックの信者かい? ってことだってことはすぐに分かった。いえ、違います、と答えたら、「ふ〜ん、いや、あっちの人が多いもんだからね。」といって、それでオシマイだった。「あっちの人が多い」って何のことだろうと気になりながら、卒業式に出たら、なんとぼくは「栄光賞」という賞を受賞したのだった。(ぼくがカトリックの信者になったのは、30歳過ぎてからです。今は不良信者ですけど。)

 そのころの栄光学園というのは(ということはグスタフ・フォス校長がということだろうが)、賞を出すのが好きで、6年間の成績が特に優秀な者には、「栄光優等賞」というのが出た。学年でせいぜい5人ぐらいだ。これは誰でも納得のいくものだったが、もうひとつの「賞」があって、それが「栄光賞」だった。これは成績とはぜんぜん関係なくて「栄光学園に貢献した」とかいうものだったらしい。その選考をたぶん校長あたりが独断的に行ったもんだから、小山先生は、ぼくが選ばれたのを不審におもったのだろう。だから、きっと信者なのに違いない、だからえこひいきされたのだとでも思ったのかもしれない。ぼくも不審だったが、もらえるものを拒む気持ちもなかったし、親に誇らしい思いを味わわせてこなかった6年間の最後にその「誇らしい思い」を味わってもらえたことを嬉しく思ったものだった。

 小山先生は、「君が受賞したよ」って言いたかったのかもしれないけど、秘密にしなきゃいけないから、あんなことを言ったのかもしれないなんて今は思うが、まあ、最後の最後まで印象的な先生だったわけだ。

 その小山先生は、栄光学園を退職した後、趣味がこうじて茅ヶ崎で古書店を始めたという噂を大学生の頃に聞いた。そのころ、大学からの帰りに東海道線の車内でばったり小山先生に会ったことがある。先生は神田の古書店へ買い出しに行ってきたのだといって、大事そうにおおきな風呂敷包みを抱えていた。嬉しそうだった。

 それから20年ほどたった1988年に、先生は亡くなられた。

 高校時代、カラー写真の現像を自分でやってみたと言うので、写真好きのぼくはもう夢中になって化学準備室に飛び込んでいって、その装置を見せてもらったこともある。そうそう、ぼくが奈良に死ぬほど行きたいと思ったのも小山先生の話のおかげだった。大学生になってその夢を果たし、奈良の古道を歩いているとき、ばったり小山先生に会ったこともある。先生とは奇遇だらけだ。

 何にでも、興味を持って、どんどん実行する。そういった人生のスタイルにも、ぼくは憧れを感じていたのかもしれない。ぼくの中では、小山先生のどこを突っついても「エロジイ」は出てこない。額の輝きが、「エロく」見えた先輩がいたのかもしれないが、ぼくには、やはり「希望」であった。

 


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