63 分からなくてもいいんじゃないの?

2015.11.23

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 ヒマなもんだから、日常的に、絵を描いたり、書を書いたり(という表現はちょっと変かな)、写真を撮ったりしているのだが、それぞれがバラバラな活動のようでいて、いずれも大げさに言えば「芸術的表現」を求めた活動のわけだから、どこかでつながっているような気がしたとしても、それほど不思議なことではない。

 書の方は、まだ初めて10年と経っていないわけで、いわゆる書歴というものが圧倒的に不足していて、臨書などをやろうものなら、ほんとに未熟者ゆえの四苦八苦である。そこから逃げているわけでは決してないが、もともとのぼくの癖字がかえって「味」になっているらしいということで、主に「現代詩文」とか「調和体」とかいわれるジャンルを中心にして制作している。

 つまり、「漢字」とか「仮名」とかいった伝統的なスタイルではなく、現代の詩文を、漢字と仮名交じりで書くというジャンルで、戦後とくに盛んになったらしい。もっとも、日本の伝統的な書の世界でも、漢字と仮名が交じっているなんてことはごく当たり前のことで、たとえば、和歌にしても、俳句にしても、それを書くとなれば、漢字と仮名は交ざるわけである。しかし「現代詩文書」などといった場合には、原則として「変体仮名」は使わない、とか、そういった「決まり」のようなものがあるにはある。

 まあ、専門的なことはよく分からないから、省くとして、書、それも現代的な書になると、「読める」か「読めない」かがよく問題になる。ぼくは、「読めなくてもかまわない」と思っているわけだが、「読めなきゃ意味ないじゃん。」という人がたぶん圧倒的に多いだろう。

 この前も、知人に「読めないような書って、じゃあ、どう見ればいいの?」って聞かれた。で、ぼくは、「それじゃあ、何が描いてあるか分かんない抽象画はどう見てるわけ?」って聞き返したら、あんまりそういう絵も見ないらしく、「う〜ん」ってうなっていた。で、ぼくは続けた。

 抽象画の場合は、「リンゴ」だとか「自画像」だとか、そういう題がついてちゃんとそれらしきものが描いてあると、「あ、リンゴだ。」「あ、この人の顔なんだ。」って、それで「分かった」ということになって、その人は、あとはちょっとその絵をみて、次の絵に行ってしまうよね。でも、抽象画だとそれができないから、「なにこれ? わかんない。」って言って、見ることもしない。でも、それが「何」かどうかはさておいて、色とか形とか、画面の大きさとか、画面から感じられる雰囲気とか、いくらでも見て、そして感じることっていっぱいあるわけでしょ。それが、抽象画を見るということだと思うよ。

 書も同じだよね。書の場合は「何が書いてあるか」というより、「何て書いてあるか」が問題になっちゃうから、もっと大変だ。だからまず「読める」ことが絶対条件になってしまう。書でも前衛書とか、墨象とかいったジャンルがあるけど、そこではもう「字」を書かない。字を書かないで書といえるのかっていう問題もあるけど、「読めない書」から「墨象」への距離はほんの一歩だよね。まあ、それはともかく、書でも、「何て書いてあるか」ってことを、ひとまずおいといて、墨の色とか、カスレ方とか、線の太さとか細さとか、空白の形とか、全体から受ける印象とか、それこそキリがないほど「見る」ものはあるよね。

 それでも件の知人は、納得いかないふうなので、ちょっときれかかって、続けた。

 じゃあ、音楽はどうするのさ。ベートーヴェンの「月光」ソナタを聴いて、「あ、これは月の光を音楽にしたんだあ。」って思えば、それで音楽を味わったことになるかい? そうじゃないでしょ。そもそも「月光」なんて題はベートーヴェンがつけたもんじゃないってことは有名だけどさ、ソナタ第何番なんてそっけない第の曲がほとんどなのに、それをどう聞くわけ? それは、もう、音とかメロディーとかリズムとか、それこそ、数え切れないほどのものを耳で聴いて味わっているんでしょ。それと同じに考えればいいんじゃないの。抽象画とか、「読めない書」なんかも、それと同じことなんだと思うよ。

 なんてごく当たり前のことをエラソウにしゃべり散らしたが、知人は、それで納得したのかしないのか、話題は別のところに飛んだのだけれど、案外、こういうことって、それほど「当たり前」のこととしてみんなが納得しているわけではないことを改めて確認したのだった。

 それより、「読めない書」あるいは「読めなくてもいい書」を書こうとしているからか、絵の方も、抽象画の方が面白くなってきてしまった。ぼくの場合、絵を描くといえば、水彩で風景とか植物を描くことしかしてこなかったのだが、ここへ来て、クレパスを使った抽象画に突然目覚めて、その面白さにはまっている。

 あげくの果てに、写真まで「何が写っているのか分からない写真」が面白くなってきている。「写真」は「真」を「写す」ものだから、「抽象写真」というようなジャンルはあまりメジャーではないけれど、ないことはないと思う。ぼくの場合は、そこまで行かないけれど、一見すると、ほとんどボケていて、「失敗じゃん」と思われるような写真だけど、よく見ると、どこか一カ所だけ、妙にピシッとピントがあっていて、どうやら草らしいなんてわかるような写真。そういうのが面白くなってきた。

 中井精也の「ゆる鉄」と呼ばれる写真も、電車をくっきり、しかも先頭から最後尾の車輌までを写す写真(「編成写真」と呼ばれるみたい)が本道とされる鉄道写真の中では極めて異端だ。全体が菜の花の黄色でほとんどボケなのに、隅のほうに、ちっちゃく電車が見えてそこにちゃんとピントがあっている。たぶんぼくの変な近ごろの写真もこの「ゆる鉄」の影響下にあって、「ゆる草」とか「ゆる花」とかいったものなのかもしれない。

 文学の世界では、これにあたるものはあるのだろうか。「抽象小説」なんてあまり聞かないが(ないことはない)、ぴったり当てはまるのは「詩」だ。それも「現代詩」だ。詩も「何言っているんだか分かんない」から、教室でも敬遠される。教師からも生徒からも敬遠される。

 でも、ほんとに最初から最後まで何言ってるんだか全然わからないような詩でも、どこか一カ所が、キラッと光るような詩が、あるいは全体がしぶく光を放っているような詩がある。どれだ? って聞かれても困るが、そんな詩があったような気がする。そしてそんな詩が、いつまでも心のどこかに残っているような気がするのだ。

 ぼくがほんとうに目指すべきものは、初めから終わりまで、タワゴト以外の何ものでもないのに、いつまでも忘れられない、というようなエッセイなのかもしれない。「タワゴト以外の何ものでもない」という点はとっくにクリアしてるわけだが……。


(註)この中に出てくる「知人」との会話は、半分以上フィクションです。「ウソ」という意味ではありません。「対話」のようにしたかったのです。


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