64 「不在」について

2015.12.1

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 原節子が亡くなったということを聞いてから、しきりに「不在」ということを考えている。

これから私は貴女を知ってから初めて「原節子不在の世界」を生きることになります。何が変わるわけでもございません。ただ、車や電車で、あるいは徒歩で北鎌倉〜鎌倉辺りを通る時、貴女がこの近くに今も存在しているのだ! という熱い思いの代わりに、貴女の不在を噛み締めねばならない、というそれだけのことです。 (見上陽一郎)

 フェイスブックから勝手に引用させていただいたが、見上君は、青山高校時代の教え子。

 鎌倉へはよく行くのだが、ここにあの原節子がまだ生きて暮らしているんだと、ふと思うことが何度もあった。けれども不思議に、会ってみたいとは思わなかった。見上君は、「貴女がこの近くに今も存在しているのだ! という熱い思いの代わりに、貴女の不在を噛み締めねばならない」と言うが、ぼくにはそれほど「熱い思い」があったわけではない。けれども、確かに、こうして実際に原節子が亡くなったと聞くと、「貴女の不在を噛み締めねばならない」という言葉は心に染みる。

 そんなことを思っていたら、田川未明さんのブログにこんな言葉があった。

一昨日。寝る前に目を通したツイッターで、原節子さんの訃報を知った。『原節子さん 9月に死去していた 95歳「東京物語」「晩春」』
そうか、と思った。ついに、とも。でも、なんだか違和感を覚えた。安らかに、と書きかけて、指がとまる。ちがう、そうじゃない。今の想いは、そうじゃなくて…。胸の中をのぞきこんで探り当てたのは、知りたくなかった、という言葉だった。(田川未明・ブログ「トルニタリナイコト」)

 こちらも勝手な引用だが、「知りたくなかった」という思いにも、とても共感を覚えた。原節子は確かに、つい最近まで生きて、鎌倉に住んでいたけれど、まったく消息が伝わってこなかったので、すでに「伝説の女優」だった。ひょっとして、もう亡くなっているんじゃないかとすら思ったこともある。そこへ訃報だ。しかも95歳。そして既に、9月に亡くなっていたというのだ。それなら、いっそ「知りたくなかった」とぼくも思う。知ったところで何が変わるのか。見上君の言うように「不在を噛み締める」ことになるのかもしれないが、「存在」への思いと、「不在」への思いに、それほど大きな違いはないような気もするのだ。

 身近な人を失うと、人はその「不在」に苦しめられる。けれども、どんなに苦しめられても、次第に「時」がその苦しみを和らげてくれる。もちろん、何十年たっても「悲しみを新たにする」ことはあるが、失った直後の苦しみとは明らかに違うだろう。少なくともぼくにとってはそうだった。

 66年も生きてくれば、それこそ、数え切れないほどの「別れ」を経験し、その「不在」に苦しめられてきた。けれどもその苦しみや悲しみは、必ず、いつも和らいできたし、それぞれの「不在」をなんとか受け入れることができてきたような気がするのだ。

 思うに、「存在」の反対は「不在」なのではないだろう。「ある」の反対に「ない」があるわけではない。というのも、「ない」ものをいくらひっくりかえてしても「ある」にはならないからだ。

 「ない」が、「ある」に先だつということは決してない。「原節子のいない世界」というのは「原節子のいる世界」を前提にしてしかありえない。原節子がかつてこの世に存在しなかったとしたら、「原節子のいない世界」は存在しようがないからだ。

 むずかしい話になってきたが、要するに、人間がこの世に生まれて、生きた、つまり「存在した」ということは、その「存在」が、その「生死にかかわらず永遠である」ということだ。原節子が生き、映画に出演したということは、原節子が長生きしようが、亡くなろうが、決して消えることはない。それは映像に彼女の姿が残っているとか、人々の心の中に生きているとか、そういうことではなくて、とにかく、原節子が「存在した」以上、世界はもう「原節子がいなかった世界」へと戻ることはできないということなのだ。

 こういうことを哲学ではなんというのか知らないが、少なくとも多くの宗教が説く「永遠の命」というのは、こういうことを言っているんじゃないかとぼくは思うのだ。「天国」とか「あの世」とかいうものも、こういうことの別の説明の仕方なのではないかと思うのだ。訃報を聞いて「不在を噛み締めるしかない」と思い、「知りたくなかった」と思うのも、実は、このような世界のあり方をどこかで感じている、あるいは知っているからではないのだろうか。

 そんな感慨に浸っていると、また訃報が飛び込んだ。水木しげる、93歳。そして我が家にも、今続々と「喪中葉書」が届いている。

 死んだら人間はゴミになると言った人がいる。とんでもない話だ。生きようと、死のうと、人間はゴミではないし、ゴミになんかなりはしない。生きていればもちろんだが、死んでしまっても、いつか、どこかで、必ず笑って会える。「あなたのいない世界」は「あなたのいた世界」と、断絶なんかしていない。ずっと地続きなのだ。

 


 

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