60 題名だけのエッセイ

2015.11.1

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 前回のエッセイで、三國一朗の『肩書きのない名刺』という本のことに触れて、読んでもいないのに、勝手な憶測を書いたが、名前や顔を知っているからといって、その著書の内容を憶測ですませていいものだろうかと何となく気がとがめて、あのエッセイを書いたあとに、その本をネット古書店で買い求めた。

 さっそく目次を見て、「肩書きのない名刺」という題名のエッセイを探したのだが、これがないのだ。意外だった。エッセイ集の題名というのは、別にその中に収録したエッセイの一つにするものだなんて規則めいたことはないが、最近のエッセイ集そういうものが多い。たとえば、ぼくが持っている堀江敏幸のエッセイ集でも、8冊中の6冊までの題名がそうなっている。そうなってないものは、例えば『本の音』という題名で、これはエッセイ集全体が「本」に関してのものなので、そういう包括的な題名となっているわけである。

 『肩書きのない名刺』という題名は、どう考えてもそうした包括的な題名とは思えない。何か、一篇のエッセイとして書かれていることをどうしても予想させる題名ではないか。これはどういうことだろうと不思議に思いつつ「あとがき」を読んでみた。ぼくが買ったのは中公文庫版だから、「文庫版のあとがき」だが、そこにこんなことが書いてあった。絶版の本なので、引用しておく。

 

 自分の雑然たる文章を集めた一冊の本に、「肩書きのない名刺」などという名前をつけたのは、それまでの私の生活が、本人の好むと好まないとに拘らず、いかに「肩書き」に縁の深いものであったか、その一つの現われではないかと思います。
 「肩書き」のある名刺を多用したのは、やはり麦酒会社の営業部につとめていた十年近い歳月の間だったでしょう。会社も業界も全部が上わ向きで、活気にみちた時期でした。私のような下っ端でも、日に日に手持ちの名刺の減っていくのがよくわかりました。もっとも仕事が広告で、社外の人たちとの交渉が多かったからかもしれませんが……。
 この雑文集のそもそもの初版が出ることになり、本のタイトルを決める段に到ったときのことを、いまでも憶えています。
ある日、銀座に用があり、いつものように自分の車で出かけました。皇居のお濠のふちの道を半蔵門から日比谷へむけてゆっくり走る。あの、駐日大使だったころの詩人のポオル・クローデルが愛したといわれる景観のコースです。
 途中、祝田橋の大きな交叉点の手前で、信号が赤にかわりました。ふと、そのとき頭に浮かんだのが、「肩書きのない名刺」で、私は目の前の信号が赤から青にかわるまでの短い何十秒間かに、その八文字を胸のポケットから出した手帖に書きとめることができました。それというのも、あの交叉点の信号は、車の流れの調整のため、ゆっくり変わるからなのですが……。

 

 この後は、中公文庫に収められることが嬉しいという話題に移っていってしまうから、これ以上の説明はない。これはこれでまた不思議な話である。いろいろなエッセイを集めて本を出すことになった。そのタイトルをどうしようかと考えていたとき、ふと車で信号待ちをしている何十秒かの間に思いついた。それが「肩書きのない名刺」の8文字だった、というのだ。

 自分のそれまでの生活が「肩書き」に縁の深い生活だったから、「肩書き」とは関係のない生活に憧れていたということなのか、現在の自分が様々な仕事についているので、「肩書き」の書きようがない生活をしている、ということなのか、そのへんが曖昧で、よく分からない。このエッセイ集全体を読んでみれば、その辺の三國一朗の「気持ち」が分かるのかもしれないが、いずれにしても、この題名を持つ三國一朗のエッセイが「ない」ことだけは確かなのである。

 「題名のない音楽会」ではないけれど、「題名だけのエッセイ」という言葉がふと浮かぶ。

 「肩書きのない名刺」というエッセイがあると思いこみ、それが何十年と続き(そもそもこの『肩書きのない名刺』という本の初版は、昭和55年(1980年)で、日本エッセイストクラブ賞を受賞している。ぼくはいつこの本を知ったのか記憶にないが、おそらく30年ほど前だろう。)その内容を憶測しつづけ、そして、いざ内容を確かめようと本を買ってみたら、そのエッセイがない。内容がない。実に宙ぶらりんな、不思議な感覚である。

 題名だけ知っていて、まだ読んだことがないということはよくある。よくあるどころのサワギではなくて、そんな本だらけである。けれども、題名だけ知っていて、何十年かたってから読もうとしたら、題名だけだった、なんてそんなことは滅多にないのではなかろうか。

 逆に、何十年も題名だけは知っていたということは、それだけその題名にインパクトがあるからだ、ともいえる。「内容の喚起力」が優れているということだろう。とすれば、「肩書きのない名刺」の8文字は、俳句よりも更に短い「詩」といってもいい。ぼくが憶測したような「お説教」の「内容」を持つより、いっそ「ない」ほうが、いろいろと考えられていい、とも言えるからだ。

 ぼくも、いつかこんな「題名だけのエッセイ」を書いてみたいものだ。だらだらつづく「内容」なんかいらない、そんな思いに誘う題名だけのエッセイを。それなら「読む」のも楽だし、「書く」のも楽だ。


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