58 スピーチっておもしろい

2015.10.20

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 同窓会で「恩師」を呼んで、スピーチをしてもらうとなると、たいていは話が長くて、聞いている「元生徒」がうんざりしてしまうのがオチである。その「恩師」がご高齢だと、長いうえに、何を言っているのかとりとめもなくなってしまい、うんざりに拍車をかけてしまうことにもなる。

 ご高齢というほどもでもないが、どう考えても「老人」に分類されるぼくとしては、同窓会でのスピーチは、できる限り簡潔にといつも思うのだが、なかなかむずかしい。

 つい先日、都立青山高校時代の教え子の同窓会があった。青山高校には7年間いたが、最初の1年は担任なし、2年目に1年生を担任して卒業させた。その後にすぐまた1年生を担任して卒業させたのだが、彼らが卒業すると同時にぼくも「卒業」してしまった。つまり浪人の面倒をみないで、さっさと栄光学園に行ってしまったというわけで、いまでも、申し訳なかったと思っているのだが、今回はその後の方の卒業生だった。

 同窓会では、昔の教え子に会えるだけではなくて、昔の同僚の先生に会えるという楽しみもある。青山高校では当時ぼくはほとんど最年少だったから、同僚といっても、みんな歳上である。今回もぼく以外の3人とも、ぼくよりずっと、あるいは、かなり、ご高齢だった。中でも、N先生は、御年86歳ということで、ぼくの母と3歳しか違わない。その先生が、ちゃんと出席なさっている。これだけでも感激である。

 で、そのN先生がスピーチをしたのだが、先生は、おれはこういうところで話すと長くなって、どんどん横道にずれていって元に戻らなくなるから話すべき項目をこれに書いて来ましたといって、その紙を手にしながら、これを全部話すとこの会が終わってしまいますから、3つだけにしますといって話し始めた。このとき、すでに「え? 3つも?」という不安げな声がどこからか聞こえたが、その不安はみごとに的中する結果となった。

 1つ目、車、といってN先生は本題に入った。なるほど、N先生と車は、もう切ってもきれない縁だよなあとぼくは期待に胸をふくらませた。東京郊外に住んでいた先生は、毎日車で通勤していた。ぼくはそのころ、電車に乗るのがコワイという今でいうところの「パニック障害」の症状に悩んでいたので、すごく羨ましかった。あるとき、どうして電車で通勤しないのですかと伺ったことがある。その時、先生は、「いやあ、オレはさあ、気が短いからね、すぐに電車の中で喧嘩しちゃうんだよ。車はひとりだからいいよ。」と答えたのだ。非常に温厚にみえる先生の答えとしてはかなり意外だったが、話はそれで終わってしまい、その後、青山高校を離れてからも、N先生のことを思い出すたびに、「それにしても、なんで電車の中で喧嘩になっちゃうんだろう。」というギモンが、頭の片隅にヒラヒラと浮かぶのだった。

 ぼくはね、青山高校に来るまえに、秋川高校という全寮制の学校の教師だったんだ、と話が続く。(これはぼくの余談だが、柳家喜多八という落語家がいてぼくは大ファンなのだが、あるとき、喜多八師匠と話をしたことがある。その時に、喜多八師匠の師匠、小三治師匠は、青山高校の卒業生ですけど、ぼくは青山高校で昔教えていたんですよと言うと、喜多八師匠は、へえ〜、そうですか、ぼくが習った先生が青山高校へ転勤していったなあと言うので、え? 何と言う先生ですか? と聞くと、それがなんとN先生だったのだ。喜多八師匠は秋川高校の卒業生だということもびっくりしたが、彼が、N先生の教え子だったということはもっと衝撃的にびっくりした。)話を戻す。N先生は話す。

 ぼくはねえ、教師だから、つまり授業は闘いだから、よし今日も闘うぞって思いで電車に乗ってね、立川から乗り換えて学校へ向かうわけです。するとね、え〜っと、何ていうのかなあ、ああ、ショルダーバッグってあるでしょ。いや、発音が違うな、Shoulder bag、だ。それをね、かけたヤツがね……。あ、そうそう、授業のことだけど、あれはほんとに闘いなんだ……。

 どうもあやしくなってきた。話がショルダーバッグのところから、青山高校に移ってきたときの生徒の印象の方へ話が行ってしまい、もう「車」のテーマには戻らなかった。

 でも、ぼくは、ここまでの話で、長年、そう、もう40年近くもあたためてきたギモンが氷解するのを感じて、こころの中で「そうだったのか!」と叫んでいた。先生の話はどんどん横道にそれていって、とうとう詳しく話されなかったけれど、それで「喧嘩」の原因がわかった。

 自分は、これから緊張感を持って「職場」に向かう。そこには一筋縄ではいかない生徒たちが待ち構えている。その生徒たちに何とか英語の力をつけるように今日も頑張ろう、そう思って「五日市線」の電車に乗るのに、ショルダーバッグを背負った若いヤツ(あるいは高齢者)が、山登り、つまりレジャーのために電車にのってはしゃいでいる。(五日市線なら秋川渓谷、青梅線なら奥多摩へと向かう人たちがたくさんいたのだろうことは容易に想像できる。秋川高校は既に廃校となっているが、最寄り駅は五日市線の秋川駅だったはず。)そして、そのショルダーバッグがオレの肩に当たったりする。頭にくる。喧嘩になる。そうだ、そういうことだったんだ!

 おれは働きにいくのに、こいつらは遊びにいく──だからといって、なにも喧嘩しなくてもとは思うけれど、それはN先生の気の短さというよりも、仕事への熱い思い入れの証しだろう。(これもぼくの余談だが、青山高校に勤めていたころは、昼食をとりに、よく目の前のボーリングセンターのレストランに行ったものだ。すると、ベンツやらBMWやらで乗り付けてボーリングを習っているマダムが若い男のコーチと一緒に楽しそうに食事する姿をよく見かけたものだ。その度に、オレたちは、こんなに苦労して働いているのに、こいつらときたら! と何度心の中で叫んだかしれない。まあ、これは単なるヒガミにすぎず、ぼくの「教育への熱い思い」を立証するものではない。)

 N先生の話は、青山高校の生徒の優秀さから、昨今の英語教育の問題点へと果てしもなく続いてゆき、いつ果てるともない不安感が会場に漂い始めたころに、幹事の必死の「努力」によってなんとか収束にむかったわけだが(ぼくは、できることなら、そのいつ果てることないお話を、いつ果てることもなく聞き続けていたかったのだが)、それでもぼくのこころの中には、かつて青山高校で先生と机を並べて働いたころの先生の姿が鮮明によみがえっていた。毎日生徒が提出する山のようなノートに、細かく赤ペンで添削している先生の姿だ。万事面倒くさがりで、できるだけ手を抜いて「仕事」を減らすことしか考えていなかったぼくのような教師もいれば、ここまで生徒のために時間と労力をさける教師もいるのだと、いつも感嘆して眺めていた。よし、ぼくもそういう教師になろうとは一度も思わなかったが(それは思ってもなれっこないことを骨身にしみて自覚していたからだ)、その後の30年に及ぶぼくの教師としての生活の中で、教師の姿の理想型として存在し続けたのだった。

 改めて、N先生に感謝申し上げ、ご健勝を祈りたい。


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