56 怠らず修業しよう

2015.10.6

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 読書の楽しみのために、やってはいけないのは「自分で書く」ということだというようなことが、ヴァレリー・ラルボー『罰せられざる悪徳・読書』という本に書かれていた気がするので、確かめようと本棚を探したが、見つからない。もちろん、「自炊本」も検索したが、ない。こういうことが最近多すぎて始末が悪い。

 そんなわけで確かなことではないのだが、そんなことをラルボーは言っていたはずだ。30年以上も前に読んだ本だが、妙に印象に残っている。

 世界には「読むべき本」があふれているのに、「書く」ことで貴重な時間を失ってはならない。「書く」ヒマがあれば「読む」べきなのだというその考えは、その後も、ぼくの頭の中に間歇的に立ち現れてきた。

 つまり、「表現・創作」と「受容・鑑賞」のどちらが大事かってことだ。絵でも書でも同じことだが、素晴らしい作品を観て感嘆することと、下手でも自分で創作する喜びを味わうのと、どっちがシアワセかってことだ。

 そんなの、決められないというのが答である。正確に言えば、「人それぞれ」ということになる。

 他人の作品には興味がないという天才的な作家もいるだろう。しかし、そういう作家も、駆け出しのころはやっぱり他人の作品を読んだり見たりして存分に影響を受けたはずだ。生まれてから一度も本を読んだことのない人間が小説を書けるとも思えないし、一度もモーツアルトやショパンを聴いたこともなくいきなり作曲を始めたという作曲家もいそうにない。

 出発点はなんらかの模倣から始まり、やがてその人独自の世界を発見すると、もうその世界をひたすら掘り進めるということになるのだろう。そういう芸術家の姿は、傍目にみてもうらやましい。当人にとっては苦しい日々なのかもしれないが、やはりぼくには至福の日々に見える。

 ラルボーの言葉が間歇的に蘇るのは、ぼくが実にどっちつかずの人間だからである。小説こそ書かないけれど、詩を書いたり(過去のことだが)、絵を描いたり、書を書いたり、写真を撮ったり、手当たり次第といった感じで手をつけてきた。「受容」だけではどうしても満足できないタチなのだ。けれども自分の「作品」に満足したことなど一度もない。たまには、「お、これいいかも。」なんて思ったり、「オレは天才かも!」と叫んで家内の失笑をかったりすることはあるけれど、なんかイマイチ感をどうしても拭えない。

 それならいっそ「受容」オンリーに徹してしまったほうが、生活もどんなに豊かになるかしれない、とふと思うわけである。

 いろいろ手をつけて来たなかでも、もっとも「経歴」が浅いのが書なのだが、始めたころからすれば「上達」したことは確かなようだが、どう考えても「書家」と名乗れるほどの域に達しそうにないのは事実で、だからもういい、もうやめたということでは決してないけれど、死ぬまで「上達」を目指してひたすら自分の世界を掘り進めるという「至福」の時間には恵まれそうにない。(ぼくには、ひとつのことに一生をかけて打ち込む人がもっともシアワセな人に見えるのだ。これは、中学生以来変わらない「信念」のようなもので、その頃から、そういう人に憧れ続けてきた。そういう人がぼくからはもっとも「遠い人」だったからだ。今でも、それはちっとも変わらない。)

 書を始めて、ちょうど9年になるが、ぼくにとっては、「少しずつ上達してきた」という喜びよりも、「書を見て、楽しめるようになってきた」ことの方が、嬉しい。スゴイ作品を見て、スゴイと思えることが嬉しいのだ。その喜びに比べれば、自分の作品の出来不出来なんて、実はどうでもいいことのように思えるのだ。

 前にも書いたが、『マルテの手記』の冒頭ちかくにあるこの文章が、最近ますます身近に感じられてきている。

 僕は見る目ができかけている。自分でもどういうのかよくわからないが、なにもが今までよりも心の深くへはいりこみ、いつもとどまる場所よりも奥へはいる。きょうまで自分でも知らなかった心の隅があって、今はなにもがそこまではいりこんで行くのだ。その隅でどんな事が起こるかは知らない。(『マルテの手記』リルケ・望月市恵訳)

 けれどもまた「書を見て、楽しめるようになってきた」、つまりは「見る目ができかけている」のも、自分で書いてきたからこそでもあるのだ。それを思えば、9年もの長い間(飽きっぽいぼくにとっては、9年というのは、奇跡的に長いのである。)書を習い、書を書いてきたことは、ほんとうに豊かな実りをもたらしてくれているのだ。『マルテの手記』にはこうも書かれている。

 僕はもう書いただろうか? 僕は見る目ができかけている。そうである。僕は目が開き始めた。まだ少々おぼつかない。怠らずに修業しよう。

 さあ、ぼくも、怠らず修業しよう。


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