45 謄写版の行方

2015.7.20

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 前々回のエッセイで謄写版のことを書いたら、意外な反響があった。やっぱりガリ版が懐かしいという世代の人もいるわけだ。それだけではなくて、フェイスブックで「友達」になっていた金沢在住の方から、「ガリ版ネットワーク」という団体があるとの連絡があった。滋賀県の東近江町に「ガリ版伝承館」というのがあって、そこへ連絡すれば、引き取ってくれるかもしれないとのこと。なんでも、いま、ガリ版を使って、名刺、カード、アート作品などを制作する若い人がいて、そういう人へいらなくなったガリ版を渡す仲介役もやっているらしいとのことだった。

 で、栄光学園の責任者(といっても、元同僚だが)に連絡し、ほんとうにいらないのかを確認したところ、廃棄するかどうかは決めていないが、もしそういう引き取り先があるならお願いしたいとのことだったので、さっそく学校へ赴き、その「謄写版印刷機」を引き取ってきた。学校から送ってもいいとの話もあったのだが、何しろ、いま学校は改築のための引越作業で大わらわ。余計な仕事を増やしては申し訳ないので、ぼくが滋賀県の方へ送ることになった。

 あらかじめ「ガリ版伝承館」の方へ電話をして、ひょっとしたら使い物にならないかもしれないけど、その場合は捨ててくださいと伝えておいた。送るといっても、結構大きなものなので、簡単には梱包できない。家にそんな大きな段ボール箱もないので、ホームセンターに行って探してみたら、ちょうどおあつらえ向きの段ボール箱を売っていた。それに緩衝材のプチプチをつめて、案外簡単に梱包完了。あとは、宅急便のオニイサンに家に取りにきてもらうという段取り。学校から持ち帰って、その日のうちに「謄写版印刷機」は我が家から滋賀県へと旅だって行った。そして、もう翌日、「ガリ版伝承館」の方から電話があり、「今日届きました。これならまったく問題なく使えます。」とのことだった。

 こんなこと、昔だったら、まず考えられないことである。謄写版印刷機が出てきたけど、こんなもの、今どき使わないよなあと思って、しばらく思案したのち、ええい捨てちゃえということになっただろう。いや、今だって、同じことだし、もし、この謄写版印刷機が校舎の片隅から出てきたときに、そのことをフェイスブックに投稿する人がいなければ、今ごろ、廃棄になっていただろう。
実はこの「発見」の経緯を当事者に聞いたのだが、発見された場所は、「学園通信」の編集室だったとのこと。栄光学園には、創立の当初から「新聞部」があって、「栄光ニュースフラッシュ」という新聞を発行していた。ぼくが栄光に教師として赴任したときも、まだ「新聞部」は存在していて、「栄光ニュースフラッシュ」も発行されていた。ところが、だんだん部員が減っていき、とうとう「新聞部」は廃部となってしまった。けれども、学校新聞がないというのは、いろいろな記録が残らないし、それよりなにより、なんか淋しいということだったのだろうか、「新聞部」が復活するまでの間、教師ががんばって作ろうということになって「学園通信」という新聞のようなものが発行されるようになったのである。しかし、「新聞部」はいつまで経っても復活することなく、教師中心の(一時は生徒がスタッフに加わったときもあるような気がする)「学園通信」が発行され続けているというわけである。

 その「学園通信室」を、校舎改築のために(とうぜんその部屋も壊されるわけだから)整理していたら、「変な木の箱」が奥の方から出てきた。すぐにそれが何であるか分かった教師もいたが、それが何なのか分からない人もいたらしい。箱を開けると、不思議な機械が出てきたというわけで、若い先生がその写真を撮り、フェイスブックに投稿した。それをぼくが見て、エッセイを書いた。それから以後のことは先述したとおりである。

 やはりこの一連の件に関して、すごいなあと思うのは、ひとつはフェイスブックというツールの有効性である。ぼくがブログだけやっていて、エッセイをそこに書いただけなら、「ガリ版伝承館」というのがありますよ、という連絡はこない。ぼくのブログはコメントできない設定になっているからだ。そのブログの記事をフェイスブックにリンクさせたことで、連絡が来た。これはやっぱりすごい。

 もうひとつは、宅急便だ。オニイサンが家に取りにきたのが夜の7時。次の日の午後には滋賀県にもう着いている。この流通のすごさには改めて感心してしまった。

 世の中は、ほんとに便利になった。しかし、その一方で大事なものがどんどん失われていく、という論調はもう飽きるくらい聞くところだ。しかし、この「便利さ」が、もうほとんど誰も使わなくなった「謄写版」を復活させるという動きの仲介をしている。このことは、なにか、閉塞感でいっぱいの世の中に、風穴をあけてくれているような気がして何だかうれしい。

 栄光学園も2年後には新しい校舎が完成する。教室にはきっと冷房もはいることだろう。それはそれでいい。でも、ぼくは在職中、「冷房をいれろ」とばかり叫んでいたわけではない。(「無冷房教室物語」「ぼくは『校舎運』がわるい」参照のこと。)あんまり、大きな声では言わなかったけれど、「新聞部を復活せよ」という気持ちはいつも持っていたのである。

 ついでに言えば、かつて栄光学園には、「栄光」という雑誌(文芸誌のような性質の雑誌。年に一度の発行で、よく「特集」を組んでいた。)もあった。それを作っていたのは「栄光編集部」という部だった。ぼくが栄光に赴任した直後は、「栄光編集部」の副部長だった。(栄光では「顧問」のことを「部長」と呼ぶ。生徒の代表は「キャプテン」と呼ぶ。)その後、ぼくは演劇部を再興した(演劇部は、栄光創立当初からあったのだが、ぼくが入学したころには廃部になっていたのである。栄光の文化部は「廃部の歴史」と言われていた。)ので、「栄光編集部」の副部長はやめたが、この雑誌「栄光」も、ぼくが赴任して数年後に部員不足で廃部となってしまった。「新聞部」と「栄光編集部」の廃部は、今でも残念でならない。

 新校舎だけではなく、「新・新聞部」「新・栄光編集部」の再興されたらどんなにいいだろう。退職後の無責任な思いである。


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