44 それをいっちゃあおしまいよ的な世の中

2015.7.12

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 あられもない、身も蓋もない、それをいっちゃあおしまいよ的な世の中になったものである。この現実がろくでもないものだということは、たぶん生まれたときから気づいていたはずだけれど、それでも、ここまでひどくはなかったような気がする。

 戦後の日本がいくら経済成長を遂げたからといって、武器を輸出してもいいことになるなんて夢にも思わなかった。大学紛争のとき、友人たちがヘルメットを被ってゲバ棒持って「権力」と派手に戦っているときに、暗い喫茶店の片隅で友人と源氏物語を読んでいるほどノンポリだったぼくでさえ、「産学協同」なんて絶対に反対だった。学問は学問として自立しているべきで、企業と手を組んで金もうけをするなんて許せない暴挙だと思っていた。

 源氏物語を読んだり、室生犀星の詩を研究したり、能や狂言を観たりすることが、日本の経済成長には何のタシにもならないことなって百も承知だったけれど、だからといって、年端もいかない中学生や高校生じゃあるまいし、文学を研究したって金にならないから文学部なんて廃止しろなどとほざく政府がこの地球上のこんな身近に実在するようになるとはおもわなんだ。

 大阪のハシモトとかいう御仁が、むかし文楽を観たらつまらなかったから補助金なんてカットすると言いだし、あんまり批判されたものだから、もう一回観にいって、まあ、結構よかったけど、最後の方の演出はもっと工夫できるんじゃないかみたいなことを言ったとかいうことがあったときは、その傲慢さにあきれ果ててものも言う気になれなかったけれど、今思えば、まだカワイイもんだった。

 どこもかしこも、子どもだらけだ。ほんものの子どもは、子どもらしさを失ってきているし、その子どもらしさを失った子どもに対して、お金にならないことは意味ないよ、なんて教育が大手をふってまかり通ることになるわけだから、恐ろしいったらありゃしない。

 42年もの長きにわたって国語の教師をやってきたのだが、「晩年」に近づく十数年のあいだに、それこそ恐ろしいほど教育の管理化はすすみ、世の中に出てすぐに役立つことが教育の中で重視されるようになった。このままでは、国立大学から文学部を追放するだけではすまなくて、高校の国語もいらないてなことになりそうないきおいである。

 国語の中でも現代文は、まあ、評論とか、ディベートとかいった分野は生き残るにしても、古文とか漢文はあやうい。会社に入ってから、古文や漢文が役に立つかといわれたら、自信をもって「あります」なんていえやしないだろう。高校生だって、苦手な子は、こんなことやって何の役に立つんだと、昔からブツクサ言ってきたわけで、そういいながらも、半分寝ながら、「平家物語」と「源氏物語」は、ぜんぜん違う物語なんだぐらいの知識は身につけてきたはずだ(と思いたい。)あまりに熟睡し過ぎて、「源氏物語」は頼朝やら義経が出てくる物語だと思い込んでしまったにせよ、なんか、そんな名前の本があったらしいぐらいの知識はあるはずだ(と思いたい。)

 そんな「知識」なんて何の役に立つんだと、高校生以下のいまの文科省の役人なら言いかねないが、そんなときは言ってやればいいのだ。「それをいっちゃあおしまいよ。」でもいいし、「肝心なものは目に見えないんだよ。」でもいい。あるいは「野暮なこというんじゃねえや。」でもいいかもしれない。「おとといおいで」も是非使いたい言葉だ。何をいっても分からないだろうが。

 学問とか知識とかいったものは、言ってみれば、地下水脈みたいなもので、それが地表近くにあれば、ちょっと掘ればすぐに使えるわけだが、それじゃあ、何キロも掘らなきゃ使えない水はなくてもいいのかといえば、そんなことはない。そんな簡単な理屈すら分からないというのだから子どもだというのである。

 こんな世の中、舌噛んで死んじゃいたいって、庄司薫なら言うだろうが、そういえば彼は何をしているのだろうか。別にいいけど。


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