43 「謄写版」の悩み

2015.7.5

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 母校であり、元の勤務校である栄光学園が、この夏に、校舎の建て替えをする。そのために、今までの校舎の中にあるさまざまなモノの整理に追われているらしいということが、ある教員のフェイスブックから伺えた。「謄写版」である。

 それがどこにどうしまわれていたのか知らないが、とにかく前世紀の遺物みたいな「謄写版」の印刷機が出てきて、これを捨てるのかとっておくのかで、悩んでいる先生がいるらしい。

 校舎自体は、ぼくが中学3年生のとき(東京オリンピックの年、1964年)に完成し、夏休みに、横須賀の田浦から大船へ引っ越してきた。土地の買収やら、新校舎の建設やらでだいぶ金もなくなっていたらしく、使えるものはなんでも持ってきた。運搬も、業者にすべてまかせるというのではなく、生徒も協力したし、家族までもが協力したというか巻き込まれた。我が家はペンキ屋だったので、業務用のトラック(トヨエース)も動員されて、叔父だったと思うが、何度か田浦から大船までモノを運んでいたという記憶がある。けれども多くのものはそこに置き去りにされ、捨てられたわけで、それはそれで仕方のないことだ。

 その「新校舎」も、築50年ということになり、とうとう建て替えということになったわけだ。50年もたてば、いろいろと、いらないゴミみたいなモノがたくさんあるに違いない。そのなかのひとつが「謄写版」というわけだろう。

 若い先生は、おそらくその使い方すら知らないだろう。だから、「捨てちゃえ」と思うに違いない。ところが、ぼくに近いような世代の先生には、しみじみとした思い出があるはずだ。だから「とっておけ」ということになるに違いない。むずかしいところだ。

 実は、「若い先生は使い方を知らないだろう」どころのサワギではないのである。もう30年も前に、当時の高校生は、この「謄写版」の使い方を知らなかったのだ。

 ぼくが栄光学園に教師として赴任したのは、1984年(昭和59年)、御年35歳のときであった。赴任して2〜3年経ったころだろうと思う。ブラスバンド部の生徒が職員室にやってきて、コンサートのチラシを印刷しているのだが、謄写版が壊れてしまって、ぜんぜん文字が印刷できないと訴えてきた。「壊れる」といっても、謄写版なんて、実にシンプルな構造なので、壊れようがない。「ローラーにインクをつけて、ちゃんと刷ってるの?」って聞くと、「はい、そうしています。」と答える。「それでも、紙に字がぜんぜん印刷されないの?」って重ねて聞くと、「はい、そうです。」と言う。

 謄写版を知らない人のために説明すると、まず、「蝋原紙」と呼ばれる、薄い和紙(?)に蝋をひいた丈夫な紙を、「ガリ版」と呼ばれるヤスリの板に上に置き、その原紙に、「鉄筆」とよばれる鉛筆の芯が鉄でできたような筆記具で字や絵を書くわけである。(この時、ガリガリという音ができるので、「謄写版」は別名「ガリ版」と呼ばれた。)そうすると、鉄筆で書いた部分は、蝋が削られて穴があく。といっても、紙は丈夫だから、切れてしまうことはない。つまり、書かれた部分だけ穴のあいた紙ができるのである。後は、それを謄写版の機械にセットして(そのセットの仕方は説明しません。メンドクサイので。)インクを着けたローラーで、こすると、したに置かれた紙の上に、穴からしみ出た(?)インクがついて印刷できるという仕組みである。つまり、これを「孔版印刷」という。

 昔は、これで、授業のプリントやら、試験問題やらを作成していたわけで、実に大変だったのだ。国語の試験などは、文字数が多いから、延々とガリガリやっているわけだが、途中で問題文の1行が抜けていたりしようものなら、その原紙は廃棄して、また最初からやり直し。何時間かかったかしれやしない。ぼくが教師になったのは1972年(昭和47年)御年23歳だったが、その時はまだこのガリ版で仕事をしていた。それから5年後、青山高校に行ってからは、ガリ版にかわって「トーシャファクス」という機械が登場してこの「ガリ切り」からは解放された。(しかし、現在学校で主に使われている「リソグラフ」に至るまで、原理はすべて「孔版印刷」である。「オフセット印刷」は「平版印刷」なので違う。)

 どうも説明が長くなったが、件のブラバンの生徒の言うことがどうにも理解できないので、とにかくブラバンの部室に行ってみた。自分でもローラーにインクを着けて刷ってみたのだが、たしかに紙は真っ白で、何にも印刷されていない。よく見ると、原紙もちゃんとセットされている。不思議だと思いつつ、周囲を見渡して、「ここで原紙を作ったの?」と聞いてみた。やはり「はい、そうです。」と答える。あっと思って、「『ガリ版』はどこにあるの?」って聞いてみた。すると驚くべきことに「『ガリ版』って何ですか?」という答えが返ってきた。「だって、ガリ版の上で書かなきゃダメでしょ。どこで書いたの?」と聞くと、「この机の上で書きました。」との答え。それじゃ穴があくはずがない。ぼくはまた彼らを連れて職員室に戻り、棚の中から「ガリ版」を取り出し、この上で書くんだよ、そうすると穴があいて印刷できるんだと教えてあげた。彼らは、初めて聞くその説明に、ふ〜んと感心しきりだった。

 これが30年も前のことである。やっぱり捨てちゃったほうがいい。それでなきゃ、「博物館」行きだ。


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