39 ぼける・ぶれる

2015.6.8

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 ぼける、ぶれる、ということは、写真の世界では基本的にはよくないことである。もちろん、意図的にぼかしたり、意図的にぶれさせたりということはあるのだが、結婚式の新郎新婦のケーキ入刀なんてシーンで二人の顔がピンぼけだったり、カメラを持つ手が震えてブレブレだったりしたらダメに決まってる。

 意図的なぼけやぶれにしても、最低限どこか狙うところにピントがビシッと合っていることが求められる。電車の流し撮りをしても、電車自体が流れてしまっていては、どうしようもないし、ポートレイトで背景にピントがあっていても、肝心の顔がピンぼけではポートレイトにならない。だから普通の人が写真を撮るときには、「ぼけないように」「ぶれないように」気を付けるということになる。それができないと「失敗」と考えたり、思われたりしてしまうわけである。

 ところが一歩写真の世界に踏み込むと話がちがってくる。そこでは「ぼけ」「ぶれ」が非常に大事な要素となる。花の写真をちょっとでも本格的に撮ろうと思ったら、背景のぼけがどうのこうのという問題がすぐに出てくる。そうなるともうiPhoneなんかじゃダメで、一眼レフのカメラを買い、「ぼけ味」のよいレンズに大枚をはたいたりすることになるし、電車の写真をちょっとでも取り出すと、どうやったら流れる風景の中にくっきりと電車の車体だけがくっきり写るだろうと腐心することになり、シャッタースピードをどうしてこうして、電車が来たらカメラをどう動かすかということに四苦八苦することになるのである。

 つまり「常識」の世界とは逆になると言ってもいい。「常識」というものの定義は難しいが、まあ、普通の人が考えること、あるいは専門的にやっている人じゃないひとが考えること、ぐらいの意味でとっておけばいいだろう。

 写真の常識では「ぼける」「ぶれる」はNG。ところが本格的に写真をやると、「ぼける」「ぶれる」が重要となる。これと同じことが、ほとんどすべての「芸術」と呼ばれる世界にもあてはまるような気がする。

 たとえば、いちばんよく分からないとされる「書道」。「常識」では「にじむ」「かすれる」はダメだということになる。つまりそう思い込んでいる人が多い。書道を始めたばかりの頃は「にじむ」「かすれる」が怖かった。だからなるべく「にじまない紙」を求め、「かすれない」ように筆を運んだものだ。ところがちょっと深入りして、公募展なんかに応募する作品を書こうとすると、「にじみ」「かすれ」こそがポイントとなる。「もっとこの辺をにじませて。」「全体にかすれが少ない。」というような注意をそれこそ何百回も師匠からされたし、今でもされている。今では「どうやったらにじむか。」「どうやってかすれを出すか。」に腐心する日々だ。

 書道でもうひとつ問題となるのは、「読める」か「読めない」かということだ。「常識」では「読める」ことが大事となる。書道展などへ行っても、「これ何て書いてあるの、読めない〜。」と言われて、素通りされる素晴らしい作品がある。しかし書道に深入りすると、「読める・読めない」は二の次になるケースもある。あるいは最初から「読めない」ことを目指す場合もあるし、更に字を書かないという人も出てくる。それじゃ「書」じゃなくて「絵」じゃないかという議論もでてくるが、結論はそう簡単にはでないし、結局、最終的には「考え方の違い」というところに落ち着くしかない。

 先日見た映画『ジェームス・ブラウン』の中でも、彼の歌を聴いたプロデューサーが「歌はどこにあるんだ。こんなものは音楽じゃない!」とか叫ぶシーンがあった。プロデューサー氏の「常識」では、AメロがあってBメロがあって、サビがあって、というのが音楽で、ただただ同じリズムが激しく続き、そこに叫びとも声ともつかぬ「音」がのっていくというようなのは音楽じゃない、ということになるわけである。

 世間的な「常識」、あるいは自分が勝手に作り上げた「固定観念」に縛られていると、結局、芸術とよばれるものを「理解」できないままおわってしまうだろう。芸術ならそれでいいのかもしれないが、それが自分の「人生」だったらどうなるのか。「生き方」だったらどうなるのか。

 「ぶれない」「ぼけない」だけが、ほんとうの生き方だろうか。「にじまない」「かすれない」だけが、ほんとうの「生き方」だろうか。「分かる」「意味が理解できる」だけが、ほんとうの「生き方」だろうか。

 ぼけ、ぶれ、にじみ、かすれ、理解されない、そういう「生き方」もあるような気がする。もっといえば、そういうところにしか、ほんとうの「生きがい」もないのかもしれない。


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