38 芸術家気分

2015.5.31

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 「自然」と「人工」の対比は、よく言われることだ。里山の風景などは、川や山や樹木などの「自然」と、その「自然」を「手入れ」する「人工」の調和から生まれるのだと言われる。あるいは「自然」の中に点在する人家という「人工」との調和とも言われる。あるいは、川崎などの工場地帯の夜景のように、いっさい「自然」の失われた「人工」の世界の美しさを好む人がいれば、そこに咲く可憐なタンポポを見つけて、「こんなところに自然が!」といって喜ぶ人もいる。

 けれども、「自然」と「人工」は、そんなに単純にわけて考えられるものだろうか、という人もいる。当然のことだ。だって、「人工」といっても、「人間」がやることだから、その「人間」が、少なくともその肉体が「自然」以外の何ものでもないわけで、「自然」がつくったものは、やはり「自然」と呼ぶべきだろう。

 そうはいっても、それじゃ議論にならない(ならなくたっていいのだが)から、養老孟司などは、「都市は人間の脳が作ったものだ。」というようなことを言う。そこで「区別」をつけるわけである。立木が雷で倒れたり、風で枝が折れたりすれば、「棒」になるが、「自然」のままでは、その先端に「矢尻」はつかない。鉄で作った「矢尻」を「棒」の先端につけて、「殺傷能力」のある道具を作るのは、人間の脳の働きで、それは「自然」からははっきり区別できるということだろうと思う。

 それに別に異論があるわけでもないし、今更こんなところで議論しても仕方のないことだが、ぼくらが「人工」と思っているものも、結局は「自然」の「ひとつの姿」なんじゃないかということを、近ごろよく感じるのだ。

 もっとも「人工的」と思われるものが「芸術」であろう。「芸術」こそは、人間が思いを込めて、あらゆる技術を駆使して「作り上げる」もの。「自然」の風景を前にして、それを1枚のキャンバスの上に「閉じ込める」。「人工」の極致のようにみえる。

 けれども、たとえば油絵にしても、絵の具、筆、キャンバスのどれをとってもみな「自然素材」である。絵の具は、「工業製品」だが、それでも、「自然にない素材」を使っているわけではない。筆も最近は、合成樹脂素材のものもあるが、(その合成樹脂だって、その素材は自然素材にちがいない)ブタの毛だったり、馬の毛だったりする。

 まして、書道で使われる素材、道具は、より「自然」そのものだ。和紙、筆、墨、みな「自然」のものだ。そして筆を持つ指は、人間の自然たる「肉体」だ。直線を書く。けれども、筋肉が微妙に震えて、完璧な直線にならない。それを「味」ともいうが、つまりそこに「自然たる肉体」が現れるということだ。

 完璧な直線を書きたいと思って、定規をあてて書いたとする。ところが紙に筆が接触したとたん、墨は和紙に滲む。しかも筆から流れおちる墨は、一定量ではないから、「同じ幅」の線は絶対に書けない。物理的にいえば、毛細管現象ということになるだろうが、ここにも「自然」が顔を出す。

 はねる。余った墨が飛んで、余白の部分に黒い点ができる。それが滲む。庭石に落ちた雨と同じだ。筆の墨が減ってかすれる。空の雲と同じだ。

 最近、滲んだり、かすれたりという「現象」を「作り出す」ことにちょっと凝っている。

 たとえば、雁皮紙という薄くて丈夫なニジミのすくない和紙を、掌の上でクシャクシャに丸めてボール状にする。それを、大根おろしで「おろす」。すると、さすがに丈夫な雁皮紙もボロボロになる。それを伸ばしながら、和紙のハガキの上に薄めたヤマト糊で貼っていく。それを一日おいて乾かしたものを、こんどは、カッターでメチャクチャにひっかく。まっすぐに、あるいはギザギザに。あるいは、表面にヤスリをかける。など、いろいろと紙をイジメルわけである。

 そうしたうえで、その紙に、絵の具を塗る。あるいは、ふりかける。すると、絵の具は、自然と滲んで、広がったり、よどんだりして、思いがけない模様ができていく。

 それが乾いたら、スキャナーで取り込み、パソコンで色の濃さなどを調整する。1枚のハガキの上にできた画像を、27インチのモニターに拡大すると、「見えなかったもの」が「見えてくる」。葉っぱのようでもあり、亀の甲羅のようでもあり、宇宙船から見た地上のようでもあり、昆虫の羽のようでもあり、動物の内臓のようでもあり、そして人間の「こころ」のようでもある。最後の「こころ」は別としても、他はみんな「自然」の何かに似ている。それが不思議でならない。

 そんなことをフェイスブックに書いたら、教え子がこんなコメントをくれた。

 生物の身体の形態形成も、結局は物理的な過程に還元されます。絵の具の流れかた、ムラのできかたと、昆虫の翅脈のできかた、植物の葉脈のできかたには、ある程度共通の基盤があるのかも知れません。生物におけるパターンを物理的な過程と同じように数学的モデルで説明しようとしている研究が(まだ相当無理がある説明だったりしますが)行われはじめています。でも、洋三先生の生き物好きが無意識のうちに昆虫っぽいパターンを作ったのかも知れません。
 私は(おそらく多くの生物学者と同様に)、こころも、物理的な過程に還元されるはずだと(根拠なく)思っています。それは唯物論と言うよりは、人も人のこころも、自然の一部だと思っているからです。自然現象の中に人格を見出すアニミズムと同根だと思っています。

 ぼくが感じていたことを、見事に言語化し、解説までしてくれた。「共通の基盤」がある、そのことを感じていたようだ。(このコメント読んで、その昔、ある生徒が、ぼくの現代文の試験問題に、「完璧な解答」をいつも書いてきて、その度に、「ああオレがこの設問で質問したかったのはこういうことだったのか。」と納得し、感嘆したことを思い出した。教師というものは、教え子にこそ教えられるものだ。)

 そういうわけで、ぼくの「制作」した画像は、どこまでが「自然」で、どこが「人工」だろうかなんていうことは、意味のない問いだといえるだろう。ただし、出来上がった画像に、「混乱」とか「希望」とか、「脱出」とか、題をつけると、つまり「言葉」を与えるとなると、「そういうふうに見てください」という「作者」の意思表示になるから、それは「人工」かもしれない。そうなったときに、その画像は「芸術」となるということだろうか。そういう「意図」が「芸術」だと思われたくない「芸術家」は、あえて「無題」とか「作品25」とかいう「題」とするのだろうか。それなら「芸術家」とは、いったい何をするヒトなのか。

 そんなことを考えながら、いろいろな「制作」をしているわけだが、気分はいっぱしの「芸術家気分」で、どう考えようと何の責任もないので、これはこれで、案外気持ちのいいものである。


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