36 じっくり見ると

2015.5.17

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 ざっと見るとツマラナイ。じっくり見るとオモシロイ。

 海外旅行のパックツアーなんかで、パリやらドイツのロマンチック街道やらスイスの山岳鉄道やらベネチアやらをざっと見るというのなら、たぶん、ずいぶんとオモシロイだろうとは思う。そのことを否定するわけではないし、まして、自分が飛行機に乗れないものだから、生涯、そういった類のところには出かけることはないだろうと思っているために、そんな旅行がオモシロイはずがないと、イソップ寓話の「酸っぱいブドウ」のキツネ(?)のようにひがんでいるわけでもない。

 日本なんて、どこいっても同じだからツマラナイという人が結構いて、ぼくも、昔はそう思っていた。

 確かに、昨今の日本は、ちょっとした地方都市の鉄道の駅前の光景なんて、いやになるくらい画一的で、「プチ東京」のオンパレードだから、そういう感想ももっともではある。けれども、『吉田類の酒場探訪記』なんか見ていると、駅前の光景はどこも同じでも、商店街のお店に立ち寄ったり、夜になってどこかの居酒屋に入ると、同じようでいてみな違う。オモシロイ。ビデオでとりためたものをみていると、もうこれ3回目だよとか、4回目じゃないのとかいうようなのがたくさん出てくるが、前に見たからといって、見るのをやめようとは思わない。あ、これ見た、と言いながら、見ていると、いろいろ違ったところが見えてオモシロイ。違ったところが見えるというよりは、前に見たものを忘れているだけなのかもしれないが、どちらでも同じことである。

 なんで、何度見ても、オモシロイのかというと、じっくり見る、というほどではないけれど、細部を見ているからである。前に見たときは、居酒屋のオヤジの顔ばかり見ていたが、今度見ると、奥の方に座っているバアサンがなぜか気になるといったタグイ。そんなものがなんでオモシロイのかと言われても困るが、たとえば、そのバアサンが写っているのは、10年前の収録だったわけだから、10年経った今、そのバアサンは同じようにその居酒屋のすみに座ってまだ酒飲んでいるだろうかと思うと、興味深いというようなオモシロさとでも言っておこうか。

 昨日みた、新宿サニーサイドシアターの、別役二本立て『寝られます』と『ポンコツ車と五人の紳士』も、もちろん、ざっと見たわけじゃない。劇場の入り口から「じっくり見た」。新宿二丁目の汚いビルの地下である。これだけで、十分にオモシロイ。新宿二丁目といったら、もうゲイバーの巣である(らしい)。幸か不幸か、そっちの方面には縁はないが、まだ30そこそこの頃に、その道にたけている人にここに連れてこられて、やたらオモシロイ思いをしたことがある。その二丁目の汚いビルの地下、というだけで、十分にオモシロイではないか。客席わずか50人ほどの劇場は、キンダースペースのアトリエで慣れているぼくにとっては、珍しくはないが、もらったパンフレットに「今回、新宿サニーサイドシアターに初めてお越し頂いたお客様は、当劇場のあまりの小ささにびっくりなさった事と思いますが、こんな小さな小屋でこそ、その魅力を発揮する別役作品もあるのです。」なんて書いてあるのを見ると、オモシロイなあと思う。なんとなく宮沢賢治の『注文の多い料理店』のような味わいのある文章である。

 芝居も、俳優のちょっとした演技(顔の表情・声の出し方・セリフの間などなど)やら、ピンポイントで使われる音楽やらが、実にオモシロイ。中でも「寝られます」を見ていたときに、突然流れた曲が、ぼくの往年の愛聴板、アラン・パーソンズ・プロジェクトの『エドガー・アラン・ポーの世界』の一節だったときは、飛び上がるほどびっくりした。ぼくの勘違いかもしれないけれど、あのフレーズは、きっとあれだ。この演出家は、このレコードを聴いていたのか、そして、こんなところで、こんな断片をつかったのか、と、すぐに楽屋に飛び込んでいって、握手したい衝動にかられた。

 家にかえって、「全体」を振り返ったときに、果たして、こんなに元気な芝居で別役の「意図」を表現できていたのかしらという疑問はふと浮かんだけれど、とにかく、オモシロイ芝居であったことに変わりはなく、これからも芝居は見続けたいとシミジミ思ったのだった。

 それはそれとして、「ざっと見るとツマラナイ。じっくり見るとオモシロイ。」ということは、「書」の場合もそういうことはいえて、たとえば、書の展覧会場を「ざっと見て」もぜんぜんオモシロくない。その中のひとつの作品を「ざっと見て」もやっぱりオモシロくない。ところが、その作品を「じっと見る」と断然オモシロくなるということがある。書を見慣れない人は、なんて書いてあるかが分からないと「分からない」といってもう見ない。ぼくもかつては(といってもせいぜい10年ほど前に過ぎないが)そうだった。読めても読めなくても、「じっと見て」いると、だんだんオモシロくなってくる。これは、もう、絶対である。

 「書」なんて大げさなものでなくてもいい。最近、筆に絵の具や墨を含ませて、紙の上に叩きつけたり、紙の上に上からぽたりと滴らせたりしてできる模様のようなものを作っているが、感じのいいものもできるが、「失敗」と思われるものもできる。どこか「失敗」なのか分からないが、そういうのは捨てるわけだ。しかし、新宿サニーサイドシアターに行く途中にあった文房具や画材を豊富に売っている「世界堂」で、絵の具を買ったついでにレジ近くに置いてあった小さな額縁を買ってきた、それに、その捨てるつもりでゴミ箱に放り込んでおいた「作品」を、その額の大きさに切っていれてみたら、案外オモシロイ。なんか、いっぱしの「作品」づらをしている。これに5000円とか値札をつけたら、物好きな人が買うかもしれない。

 どうしてそういうことがおこるのか。それは、「失敗作」の「断片」を「作品化」したからだ。つまり、「失敗作」の全体ではなくその「断片=細部」を、額に入れて「作品化」することで、そこだけを「じっくり見る」仕組みができたからだ。

 演劇の細部は、つぎつぎに生起して消えていく。ぼくらの日常生活も、「細部」を味わうひまもなく、通り過ぎていく。「美術作品」だけは、その細部を永遠とはいわないまでも、一時的に「定着」することができる。そこがオモシロイ。

 


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