34 夢見る前に

2015.5.3

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 ものごとは、どういうめぐりあわせで、どうなるか、ほんとうに分からないものである。ぼくらの日々の生活は、大海をただようクラゲのように、あてどもないようでいて、それでいて、そのクラゲにも、一片の「思い」があれば、その「思い」は、そのあてどなさのなかで、意外なかたちで実現してしまうということもままあるのだ。

 そんなとき、「夢は必ずかなう」というような、ぼくのようなひねくれた人間にはおよそ信じられないような言葉にも、激しく共感せざるをえなくなる。思いの強さ、思い続けること、そういった「思い」も大事なのだろうが、それ以上に、なにか見えない手によって導かれているというような神秘的な領域が顔を出すような気もするのだ。

 中井精也の「一日一鉄」に刺激をうけて始めた「一日一書」も、500回を超えると、何をどう書いたらいいのか、途方にくれる日もある。これと決めた「臨書」を淡々と掲載したっていいのだが、なんだか、毎回変わったことがしたい。それで、草の先に墨をつけて書いてみたり、「コラ書」と称するものを作ってみたりしてきたが、いちばん悩むのは、どういう言葉を書くかということだ。別に悩まなくても、詩や俳句、童謡やら、禅語やらなんだって材料は転がっているわけだが、なんかこうしっくりする言葉が、毎日見つかるわけではない。

 で、あるとき、芥川龍之介の小説の題を書いている人をブログだかフェイスブックだかで知り、それなら、オレは、別役実の戯曲の題にしてみようとふと思った。

 その数ヶ月前、ぼくが賛助会員になっている劇団キンダースペースの芝居がはねたあとの飲み会で、瀬田さんが、「そういえば先生、こんどキンダーで別役やるんですよ!」と、弾んだ声で言った。

 キンダースペースの瀬田ひろ美さんは、ぼくが都立忠生高校に勤めていた頃の教え子である。教え子といっても、担任をしたとか授業を受け持ったということではなくて、ぼくが演劇部の顧問をしていたときの、演劇部員なのである。

 ぼくは、大学を卒業してすぐに都立高校の国語教師となったのだが、その学校が都立忠生高校で、そこで演劇部の顧問をせよと言われたのだ。大学時代、大学紛争に翻弄されたぼくは、高校時代まではまったく縁のなかった演劇に興味をもって、新劇から歌舞伎、能狂言、文楽まで、時間と金のゆるすかぎり見まくっていたのがその時役にたった。演劇についてはまったくの素人だったが、それまで見てきた芝居を頭に浮かべながら、何とか演劇部の顧問として、いろいろな芝居を演出してきた。その中でいちばん多かったのが大学時代から心ひかれてきた別役実の作品だったのだ。

 瀬田さんの方は、高校時代に、そんなわけで別役作品を知ることとなり、そこから当時の最先端の演劇を見るようになり、卒業するとすぐに演劇の道に入っていった。その瀬田さんが、劇作家・演出家の原田一樹さんと結婚し、今や、創立30周年をむかえた劇団キンダースペースの屋台骨を支える女優として活躍しているというわけだ。

 ぼくは、その30年間を通して、キンダースペースの芝居を見続けてきたというわけでもなく、途中、しばらく見ていない時期もあったのだが、昨今は、賛助会員にもなり、芝居の後の飲み会にも顔を出すようになった関係で、劇団員の人たちとも親しくしていただき、定年後のぼくのひとつの生きる「よりどころ」となっている。なにしろ、飲み会に出ると、原田さんや瀬田さんの「教え子」(二人は俳優養成の先生でもあるので)が来ていることが多く、そこでは決まったように、原田さんが、その若い教え子たちに、「ここにいらっしゃるのが、瀬田の高校時代の演劇部の先生です。」と、まるで水戸黄門みたいに紹介すると、彼らは、一様に目を丸くして「え〜〜!」と叫ぶ。彼らにしてみれば、雲の上の先生のそのまた先生がここに実在しているということが、信じられない思いがするのだろう。さしずめ生きた化石を目の当たりにした気分だろうか。そういう意味では、ぼくはそこではいわば「絶対的な存在」と化すわけで、こんなに無条件に「尊敬される」場は、他にはないのである。その「絶対性」は、「中身がまったくわからない」ということで更に堅固となるのであって、その「尊敬」の中身も、「そんな人がいるんだ」ということ以上でも以下でもないのである。

 また前置きが長くなった。話を戻す。

 別役実の戯曲の題名を書いてみようと思ったとき、まず浮かんだのは、当然のことながら「赤い鳥の居る風景」だった。書きながら、なるほど、題名を書くということは、ポスターやチラシの題字を書くということでもあるんだなあと思った。黒沢映画の題字なんかは、錚々たるな書家が書いている。「蜘蛛の巣城」は、金子鴎亭、「乱」は今井凌雪なんて、知る人は少ないだろうが、圧倒的な印象で、映画を見ていなくても、字は覚えているという人もいるだろう。

 ぼくの字が、たとえば芝居のチラシの字として使えるような日が来るのだろうか、そんなことが実現したらいいなあと、何となくその時思いながら、「一日一書」で次々と別役の戯曲の題名を書いていった。

 「赤い鳥の居る風景」を2回アップしてから、数日後、「天才バカボンのパパなのだ」をアップした頃、突然瀬田さんからメールが来た。「たまたま、ブログで『天才バカボンのパパなのだ』を見て、こんどのチラシの字を書いてもらえたらと思いつき、原田とも話していたところ、デザイナーの古木から、今月20日までにはチラシ原稿を入稿しないと間に合わないとのメールが来て、更に、古木がネットで検索したら、先生が『赤い鳥…』も書いているというので、ブログをさかのぼって見たら、ホントだ! あれを、使わせてもらえないでしょうか。」といったような内容だった。

 え? そうなの? 本気なの? って思ったが、「使わせていただけないでしょうか」どころじゃない。「使って頂けないでしょうか?」って頼むところだし、そんなことは10年はやいと思っていた。でも、そう言ってくれるならと、「快諾」した。けれども、あれは、「何の気なしに」書いたものなので、もう一回「その気」で書いてみようとおもって数枚書いて、そのファイルも送った。

 そのメールがあってから、20日もたたないうちに、チラシの原稿ファイルが送られてきた。驚愕した。デザイナーの古木さんは、あの字をどうアレンジするのだろうと興味津々だったが、予想をはるかに超えていた。字が主役のチラシである。使われた字は、「何の気なしに書いた」ブログに載せた字だ。やっぱり、後で書いたものは、ダメだった。それにしても、ぼくのヘタな字が、深紅に染まり、和紙に書いた字の線のざらつきが背景のざらついた街の風景と実によくマッチしている。送られてきたファイルをプリントして、机の前に張った。夢のようだった。

 長いこと別役実の芝居を観たり演出したりして親しんできた。長いこと、キンダースペースの芝居を観てきた。それに比べればたった8年だが、それでも飽きっぽいぼくとしては長いこと書道を続けてきた。その3つのことが、一挙に思いがけない形でつながった。自分の字が、芝居のチラシに使われるということを、夢見たわけではなかった。強い思いがあったわけでもなかった。強く夢見ることができる状況に至るまでには、まだまだほど遠い道のりがあるはずだったからだ。それなのに、夢見る前に、実現してしまったのだ。

 世の中は不思議な構造になっていると、つくづく思う。

 つい先日、出来上がったチラシが送られてきた。その封筒の中には、ひとりひとりがチラシを持って大喜びしている劇団員の写真も同封されていた。ぼくの拙い字が、こんなにも多くの人を喜ばせることができた、ということが何より嬉しかった。自分の「喜び」のために始めた書道にこんな展開がありうることを、ぼくは想像もしたこともなかった。金子鴎亭や今井凌雪に比べると(いや比べることじたいが非常識極まりないが)あまりにもレベルが低くて、キンダーの皆さんには申し訳ないけれど、キンダーの素晴らしい芝居は、黒沢明をきっと超えることだろう。

 ついでに、ささやかなぼくの喜びをもうひとつ。それは、このチラシが、別役実さんの目にきっと触れるだろうということ。それを思うと、つい頬がゆるんでしまう。

 


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