32 水曜日は水彩画

2015.4.19

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 今年の年頭所感のようなエッセイで、水彩画を再開して、できれば今年中に100枚描きたいなんてことを書いたのだが、その後、3月を過ぎても(3月が終わるということは、年の四分の一が終わるということだが、こういう考え方をすると、ただでさえ速く過ぎ去る時間がますます加速するような気がする)一向に水彩の筆を執る気配もない。なにしろ、8年近くもまったく水彩の筆を断ってきたので、筆そのものが古くなって使い物にならないのがあったりして、あらたに筆を買ったりはしたのだが、それでも、腰があがらない。

 これではいかんと思って、先日、ついに重い腰をあげて、1枚描いてみた。去年泊まった糸魚川温泉の客室の窓越しに撮った姫川の写真を元にした。ぼくの場合は、現場でスケッチすることもないわけではないが、今まで、ほとんどは写真を撮ってきて、それを見て描いてきた。現場スケッチのほうが、面白いし、絵に勢いがでることは確かなような気がするのだが、とにかく1枚ということで描いたわけだ。

 描きながら、やっぱりうまくいかないなあと思った。だからやめちゃったんだと思った。つまり、描く前に頭の中に持っている絵のイメージどおりに描けないのだ。描く前は、すごいいい絵が頭の中に浮かぶ。切れのいい線描に、透明感あふれる色彩。オシャレな感覚。パッと見て、「おお!」って感じ。そんな絵が浮かぶのだ。

 ところが、まずサインペンで線を描き、絵の具を塗っていくと、「え?」って感じになる。こんなんじゃダメだ、と思うのだ。でも、とにかく、紙を破らないで、色を重ねていくと、まあ、何とか許せるというぐらいにはなる。けれども、描く前の頭の中の絵とはかけ離れている。線もただゴチャゴチャとうるさく、色はどんより濁ってしまう。マジメな感じはあるが、洒脱な感じがない。つまり、「いつもの自分」がそこに出てしまうのだ。

 いくら描いても、そういう感じから抜け出せないので、たぶん、8年前に、描くのをやめてしまったのだろう。それに、書道を始めたころだったので、書道に集中したかったということもある。

 実は、その書道の方も、8年前の水彩画のような状況になっている。どこまで行っても、「やだなあ」と思っている「自分」がそこに出てしまう。それがどうも気にくわないのだ。

 そんなに「自分」が嫌なのかというと、そんなはずはない。ぼくは、はなはだしく「自己愛」の強い人間で、それは精神科医のお墨付きである。「自己愛」が強くなければ、こんなに自分のことを書くエッセイを900以上も書きつづけられるわけはないのである。じゃ、なんなのか。何がそんなに「嫌」なのか。

 簡単にはいえないが、「自分」そのものは、もう否定しようにもしきれないから、あきらめているのだが(それを肯定的に言えば「自己愛」ということになる)、自分が作った作品が「なんかイマイチ」という感じから抜けきれないということなのだ。特に、描いたばかり、書いたばかりの作品は、「ぜんぜんダメ」としか思えない。そこに滲み出ている「自分」に耐えられない。

 「蔵出し水彩画」なんて言って、何十年も前の絵などを臆面もなく公開できるのは、それが時間の経過によって、「許せる」ものに変化しているからのようで、ある意味、そこに出ている「自分」は、あくまで「昔の自分」だから、気が楽なのだろう。

 まあ、そういうわけで、1枚描いて、その後、もう1枚描いたのだが、やはり「イマイチ感」はどうしようもない。けれども、「宣言」した以上(「宣言」というほど大げさなもんじゃないが)、グチャグチャ言って反故にするのはみっともないし、それよりなにより、ぼくにはもう残された時間はそんなに長くはない。もちろん、アメリカドラマ「ブレイキング・バッド」の主人公のように「余命1年」とか宣言されたわけではないが、65歳という年齢は、「もうすぐ人生終わっちゃうよ」という囁きをいつも頭の片隅で聞いている年齢のようにぼくには思われるので、「やりたいことはやる」を旨としなければ、生きるハリもない。といって、「ブレイキング・バッド」の主人公のように、麻薬を作るわけじゃないから、「個展をやる」などと言いだしさえしなければ、世の中に迷惑をかける心配もない。

 自分を鼓舞するために、「水曜日は水彩画」というコピーを考えた。フェイスブックでは、すでに、1枚目の作品をアップしたが、このブログにも掲載することにした。そのことをお知らせしたいと思って書き始めたエッセイだったが、やっぱり枕が長かった。


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