30 ぼくは「校舎運」がわるい

2015.4.5

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 男運がいいとか、女運がわるいとか、よくいうけれど、ぼくの場合は「校舎運」がわるかったなあとつくづく思うこのごろである。

 この前「最終講義」で青山高校へ行ったときに、初めて新しい校舎を見た。ぼくが青山を去って数年後に校舎を建て替えたという話を聞いてすぐに見に行かなかったのは、なんだか悔しかったからである。ぼくがいたころの青山高校の校舎は、痛みがひどく、廊下のプラスタイルはハゲ放題、天上板もところどころ穴が空いているし、体育館の窓ガラスも割れたままになっていて、卒業式に雪が降ったときなんか、窓から吹き込んだ雪が椅子に積もっていたこともある。

 思えば、日枝小学校がもっとも「いい校舎」だったような気がする。小学生だから校舎に対する関心も不満も持ちようがないが、これといった不便とか苦痛を感じたことはなかった。

 それが栄光学園に入ったら、ほんとにヒドイ校舎だった。黒板はヒビだらけだし、教室の窓は足でけらないと開かないし、フィールドは草ボウボウだし、と挙げていったらきりがないが、なによりヒドかったのは、「暖房がない」ということだった。冷房なんかもちろんない。中学校舎は南向きで、教室の窓はものすごく大きかったから、晴れていれば冬でも暖かったのかもしれないが、雪がちらつくような冬は、もう、寒くてどうしようもなかった。小学校には、ちゃんと石炭ストーブというものがあって、石炭当番もちゃんとあって、ときどきはコークスなんかも炊いて、それはそれは暖かかった(ような気がする)。それなのに──。

 ストーブがないので、吹きっさらしの海岸を歩いて来てかじかんでしまった手を暖めることができない。一番悲惨だったのは、たしか中1の時、試験が始まっても、手がかじかんでしまってまったく字が書けなかったことだ。名前すら書けない。「先生! 手がかじかんで、字が書けません!」と訴えても、「そんなのこすってりゃすぐ治る。」っていって取り合ってくれない。生物の試験だったような気がするが、答えがわかっているのに字が書けないというナサケナイ状況が40分も続いたと思う。やっと最後の10分ほどで手が動くようになったが、到底全部書ききれるものではなかった。そんなに寒い毎日だったからこそ、雪がちらつく中でも強行された上半身裸の「中間体操」も、何とか耐えられたのではなかろうか。

 だから、栄光学園が大船に新校舎を建て、中3の2学期から新しい教室に入ったとき、いちばん感動したのは、「スチーム暖房」だった。真新しい校舎も嬉しかったが、しかし、出来上がっているのは校舎だけで、フィールドも工事中だし、造成直後の宅地のように(事実、栄光の周辺は、家の建っていない造成地が広がっていた)、ほんとに殺風景な校地だった。校舎はおんぼろでも、周辺には海が広がり、捕鯨船やら自衛艦やらが忙しく行き来するのを眺めながらの授業が今更ながら懐かしかった。

 それよりなにより、学校までの「道」がまだぜんぜんできていなかった。今は大船からそのまま直進して切り通しを登れば学校に着くわけだが、その切り通しがまったくできていなかったのだ。それで細い山道をまるで登山でもするようにくねくねと登って、ようやく学校に着くという次第だったが、雨でも降ろうものなら、靴はどろんこ。栄光には「上履き」はなかったから、そのまま土足で上がったら大変だということで、校門を入ってすぐのところに「足洗い場」が最初からあったほどだ。

 切り通しの工事がだんだん進んで、大船観音の頭も見えるようになったのは高校生になってからだと思うが、ようやく開通した切り通しも、なかなか舗装されず、どろんこの日々が続いているうちに卒業してしまった。卒業するころには舗装も完了していたように思うのだが、定かではない。

 大学に入った。東京教育大学である。噂によると全国の国立大学でもっとも敷地の狭い大学とも言われていて、入学式をやる会場もなかった。人数が多くて学内ではできないから「国際フォーラム」でやる、なんていうオシャレな話ではない。人数なんてたかがしれているのに、講堂はおろか体育館もないのである。で、どうしたかというと、すぐ隣にある小学校の体育館でやったのだ。(附属小学校だったのだろうか。)これにはほんとに呆れてしまった。呆れているうちに、大学紛争(闘争?)が始まり、ろくに大学に通わないうちに卒業してしまった。

 最初に勤めたのが都立忠生高校だった。新設2年目の学校だったが、校舎がまだ全部完成していなかった。体育館も未完成だったので、着任式は何と屋上でやった。校地もまだ確定していなくて、用地の買収交渉がまだ続いていた。テニスコートの一部の土地の農家がどうしても売ってくれないので、テニスコートが三角形になってしまっていたのだ。その買収交渉に教員まで駆り出される始末で、そのエピソードを書いたこともある。そんなこんなでバタバタしているうちに、ぼくと対立していたある教師との確執が極限にまで達してしまって(理由はそれだけではないが)、ぼくは、青山高校へ転任したのだった。

 赴任した青山高校は、都立の伝統校で、校舎は昭和33年に建てられたものだったが、とてもモダンな校舎。当時、外国のお客さんも学校といえば青山高校に見学に来たのだそうだが、さすがに老朽化が激しく、前述のとおりの有様だった。ガスのダルマストーブの暖房はあったが、冷房はなかった。忠生高校は、桑畑の真ん中にあって、風通しはよかったのだが、青山高校はビルの谷間。おまけに学校の隣にお寺があって、お墓が教室の窓から見えた。そのお墓から発生したと思われる蚊が半端じゃない大きさで、群れをなして教室に入ってくる。女の先生なんかは、蚊取り線香持参で教室に行っていたほどだ。しかも、ものすごく大きな楠木が教室のすぐ近くに何本もあって、夏には暑いだけではなく、その木にとまった数千とも思われるセミが大合唱。そのうるささといったら、表現しようもなかった。セミというものは、ほんとに始末に負えなくて、石を投げようが、黙れと言おうが、絶対に静かにならない。ああ、冷房が入っていたら、とどんなに思ったことだろう。その青山高校が、まるでぼくが辞めるのを見定めたかのように、その後、建て替えとなり、「廊下まで冷暖房完備」だなんてことを噂にきくと、悔しくて、見学に行く気にもなれなかったのは当然といえるだろう。

 そして、ぼくは栄光学園に戻った。栄光学園の大船校舎は、在学中は出来たてのきれいな校舎だったので、ぼくはそのイメージで戻ったのだったが、考えてみれば、大船校舎ができたのは、東京オリンピックの年。校舎の年齢は青山高校と大差なかったのだった。きれいなままでいられるわけはない。それでも、青山高校に比べると、廊下などは石を使ってあるのか、剥がれていないし、お墓がそばにあって蚊が来るとかセミがうるさいとかいうこともなかった。しかし問題はやっぱり夏である。

 冷房は依然としてなかった。ここで、今までの、ぼくが過ごした校舎の共通点は、「冷房がない」ということであることに注目いただきたい。小学生の頃は、冷房など、そもそも世の中に存在してないのだから問題にならない。大学もあんまり行ってないのだからこれも問題外だ。忠生高校は、風通しもよかったし、思い出はほとんど演劇部しかないから、授業中暑かった、というような記憶すらない。けれど、世の中に冷房が普及し、地球温暖化だかなんだかしらないが、最高気温が35度なんて当たり前となった栄光在職当時、夏休みをはさむ暑い日の授業は、まことに耐えがたい、まさに炎熱地獄であった。冷房がなかったのは教室ばかりではない。職員室もそうだった。

 栄光に勤めた最初の年の夏、いつまで経っても、職員室に扇風機が出てこないので(青山高校では、職員室に大きな扇風機が夏になると出てきて、それで何とかしのいだのだ)、副校長だか誰だかエライ人に「扇風機まだ出さないんですか?」と聞いたら、「え?」って聞き返されたので、どうして夏になって暑いのに、大きな扇風機を出さないんですか、と質問の主旨を縷々説明すると、「そんなものはないですよ。ここは高台で風がよく入ってくるから、いらないでしょ。」と言う。ぼくは憤然として、そんなことはない、風が強かったり、雨が降ったりしたら、窓を閉めなきゃならない、そういうときは暑いでしょ、と食い下がったのだが、「あんたは、贅沢だ。」と言われてオシマイになってしまった。その後も、電気鉛筆削りはどこにあるのかと聞くと、また「贅沢だ」と言われ(手回しの鉛筆削りがありました)、あとは忘れたが、とにかく何かを言うたびに「贅沢だ」といわれ続けた。

 栄光在職以来30年、ぼくは、職員会議やその他あらゆる機会に、「冷房を入れろ」と言い続け、その度に、反対され(教員にも反対派が多かった。もちろん賛成派も多かったが、数では負けていたように思う。)それでもめげずに言い続け、ぼくが勤めて15年以上もたって、やっと職員室に冷房が入ったものの、教室にはとうとう冷房が入らないまま、栄光学園を去るはめになってしまった。それだけが、心残りである。30年の「冷房闘争」はついにぼくの敗北に終わったのだ。

 そしてまた、栄光学園は、ぼくが辞めるのを待っていたかのように、校舎の建て替えが始まった。今度は、きっと冷暖房完備だろう。やっぱりぼくは、「校舎運」が悪い、としかいいようがない。もちろん「生徒運」がよかったから、42年も教師を続けることができたのは言うまでもないことなのだが。


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