29 ぼくの「最終講義」 その3

2015.3.30

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 「最終講義」が終わったあとの宴会で、ある男子生徒がこんなことを言った。「先生、この前より、若くなったんじゃないですか? 教室へ入ってこられたとき、あ、若くなったって思いましたよ。」

 彼が「この前」というのは、彼らが50歳になったときに行ったクラス会だから、2013年の10月だったはずだ。この時、画仙紙のハガキに「知命」という字を書いて、彼らにプレゼントしたのだから間違いない。とすると、その直後の12月に病気が「発覚」して、入院・手術という流れとなったということになるが、どうもそんなに時間的に近いという気がしないのだが、過去の手帳を見てみたら、やっぱり事実なのだった。

 とにかく、数年前より若くなったような気がした、しかも、ぼくが教室へ入ったその時に、という彼の言葉を聞いて、1枚の写真を思い出した。それはぼくが教師になって1年目か2年目に撮られた写真で、まさにプリントを抱えて教室に入ってくる瞬間の写真である。(下にあります。)自分でいうのも何だが、この写真を見ると、ああ、こんなに「やる気」があった時代もあったのだなあといつも深い感慨に襲われるのだ。まさか、その時のぼくが、あの時のぼくみたいな若々しさとやる気を感じさせたということはないにしても、久しぶりに教室へ入るということが、それなりの緊張感を生み、それがちょっとだけ「若返った」感を醸し出した、ということがなかったわけでもないのだろう。

 「教室へ入る」ということは、教師をしていれば、きわめて日常的なことで、いちいち感慨に浸っているわけにもいかないが、いったん教師を辞めてしまうと、そのきわめて普通のことが普通ではなく感じられて、一種の感慨のようなものに襲われるということもある。それは役者がうすぐらい舞台の袖から照明のあたる明るい舞台へと一歩を踏み出すような、そんな感じを伴う行為なのである。

 とにかく、ぼくは、およそ1年3ヶ月ぶりに、教室へ一歩を踏み入れた。前回も書いたとおり、現役最後の生徒は中学1年生だった。今度は、52歳のオジサン・オバサンである。その全員がいっせいにこちらを向いている。

 今「いっせいにこちらを向いている」と書いたが、これが30年ぶりのことだった。栄光学園では、原則授業開始の時は、「瞑目」といって生徒は目をつぶっているはずだから(もちろん、薄目をあけて、ぼくの方を見る生徒も稀ではないわけだが)、教室に入ったときに、生徒が「いっせいにこちらを向いている」というのは、とても懐かしい光景なのだった。そうか、そうだったなあ、と思いつつ、教壇に立って、はてどうするんだっけと思った。栄光学園では、ぼくが「よし」とか「はい」とか言わない限り、目を開けないし(例外はいます。しつこいか。)、生徒は立たない。で、一瞬困って、「こんにちわ」とか言おうとして「こ」ぐらいを発音したところで、男子生徒が「起立!」と号令をかけた。ああ、そうだそうだ、そうだったんだ。それで、「こんにちわ」といったか、何と言ったか忘れたが、何か挨拶の言葉を言い、え、それで、と思った直後に「着席!」とまた号令。なるほど、確かにそうだった。それで、ようやく授業が開始となったわけだ。

 あとの宴会で聞いたことだが、この時は、みんなもうかなり緊張していて、号令をかけた男子生徒なんてもう緊張しまくり、なかなか「起立!」って言えなかったのだそうだ。それで、あの、微妙な「間」があったんだと納得したのだが、それにしても、あの異様なまでの静けさときたら、まるで中1が入学式をおえて、初めて教室で担任と顔を合わせる時みたいだった。

 教壇に立って、みんなの顔を見渡すと、不思議なほど違和感がない。52歳の面々とはとても思えない。まるで、彼らの高校時代にタイムスリップしたみたいだ。そういう意味では、彼らも、ぼくより遙かに「若返って」いたのだった。

 次にやることは、「出席をとる」ということだった。これもまた注釈が必要なのだが、栄光学園では、この「出席をとる」ということがない。クラス委員が、「欠席はいません。」とか「誰それクンが欠席です。」とか言うだけだ。しかし、都立高校では、授業のたびに出席をとる。それでけっこう時間がつぶせたから、まるまる50分授業しなくてすんだし、名前も少しは覚えられたんだよね、なんてことから、いかにぼくが栄光学園で「授業時間短縮=労働時間短縮」に心を砕いてきたか、なるべく職員室を遅く出て、授業は終わりのチャイムが鳴ったら絶対にやめる。それを心がけているうちに、「じゃあ、今日の授業はこれでおしまい。」と言った直後に「キ〜ンコ〜ン」ってチャイムが鳴るなんてことが度重なり、いつしか生徒はそれを「完全授業」と称して期待するようになったんだ、なんていきさつをしゃべっているうちに、肝心の出席をとるという行為に至るまでにずいぶん時間をくってしまった。

 出席をとった。46名の生徒のうち31名が元気よく返事をした。実は、この46名の中で1人だけ亡くなった生徒がいる。彼女の名前も呼んでほしいと幹事から言われていたので呼んだのだが、ぼくは彼女の遺影が机の上に飾られていることをその時は知らなかった。後日ネットで配信されてきた写真で知って、胸のつまる思いだった。

 授業は、いつ果てることもない「雑談沼」に突入していた。最初のうちは一種の「近況報告」のつもりで自分の病気の話をしたが、これがけっこう長くて、その後どう話が展開していったのかあまり覚えていない。とにかく、件の「起立!」と号令をかけた生徒が宴会の席で、「先生! 今日ほど、授業の始まるのを待ちわびたことはなかったですよ!」と言ったほど、延々たる「枕=雑談」であった。

 3時ごろに始まった「授業」も、気づけば、3時40分をとっくに過ぎていた。遅くても4時10分には終わってほしいと幹事に言われている。これはいかん。このままでは、「平家物語」の「へ」の字も言わないで終わってしまう。ぼくはあわてて、強引に「平家物語」へと話をつなげ、「木曽の最期」以外に「方丈記」の冒頭と、「平家物語」の「祗園精舎」をプリントしてきていたので、それらを生徒に読ませてみた。「誰か読みたい人いる?」って聞いても、みんなうつむいてしまっている。これも昔と同じだ。(これも後で聞いたことだが、今日ほど「指されたくない」と思ったことはないとみんな思ったのだそうだ。)「じゃあ、○○君。」といって男子生徒を指すと、「お〜やっぱり!」とか「がんばれよ。」とか声が飛ぶのも昔と同じ。ぼくは、座ってその音読を聞きながら、やっぱりこういうのっていいよなあとシミジミ幸福感に浸ってしまった。

 「指名音読」も2人で終わり、みんなで「祇園精舎」を一斉音読して、その後、「朗読」だか「範読」だか、とにかくおよそ15分、「木曽の最期」を読んだ。だんだん声が枯れていくのが分かったが、そのほうがかえって悲壮感が出ていいかもなんて思いながら、最後まで読み切ったのだった。生徒は疲れたのか、感動したのか、呆れたのかしらないが、読み終わったあと、なんだかボ〜っとした雰囲気が教室にただよった。それから、何かまとめみたいなことを話して、「それじゃ、ぼくの授業はこれで終わりにします。」と言った直後、教室のチャイムが小さく鳴った。

 え? ほんと? って顔をする生徒。それなら「完全授業」? って声も聞こえた。あれはいったいどこから流れた音だったのだろうか。きっと誰かが仕込んだのに違いないとは思うけれど、そこまで完璧にこの授業を企画・演出する幹事たちのすごさにはただただ感服である。

 それにしても、「完全授業」というならば、このおよそ60分間の授業全体が、本当の意味で「完全授業」だったのではなかったろうか。この42年間、「うるさいなあ。」とか「もうちょっと集中してくれないかなあ。」とか「あ、やっぱりアイツ寝ちゃった。」とか思わない授業はただの一度もなかった。それは勤務した3校のどこでも同じことだった。ぼくの言うことをきちんと聞いて、ぼくの気持ちや考えをしっかり受け止め、できることなら、共感してほしい、というかシミジミと共感しあいたい、それが教師として、特に国語の教師としてのぼくのただ1つの願いだったのだが、それを中学生や高校生に求めることは土台無理な話だった。ぼくの思いの伝え方が未熟だったことも大きな原因だが、たとえば、方丈記や平家物語に流れる無常観や、徒然草に流れる人生への深い洞察やら、宮沢賢治の詩の言葉がもつ宇宙的な深みやらを、落ち着いた雰囲気の中で静かに味わい、共感する、そんなことは、年端もゆかない中学生や高校生相手の授業ではなかなか実現しないことなのだ。だからこそ、いつも、授業の前は憂鬱だったし、またたとえ授業が終わっても、結局は受け狙いだったんじゃないかという自己嫌悪をいつも感じてきたのだった。それが、「やっぱり教師は、オレには向いてない。」と思う本当の理由だったのかもしれない。

 けれども、この「最終講義」では、ぼくの何らかの「思い」が伝わったかどうかは分からないが、「起立!」から始まって、終わりのチャイムがなるまで、全員がちゃんと聞いてくれ、笑うところは笑ってくれて、その笑いで授業の雰囲気がダレることもなく、真面目な話になっても寝る者もいず、終始なごやかで、それでいて緊張感をもって授業に臨んでくれた。こんな授業は、ぼくの教師生活の中で、最初で、そして最後だった。

 現役の教師を「フェードアウト」して、念願のフリーの身の上になってはみたものの、ぼくは、心のどこかに、「なんかしまらないなあ」という感じを抱いていたのかもしれなかった。37年も前の教え子たちが、そのぼくの気持ちを察したというわけでもないだろうが、こういう形で「最終講義」の場を用意してくれたことに、ぼくは、どんなに感謝してもしきれない気持ちだった。そして、この日が、ぼくにとっては、本当に意味での「教職との別れ」となったのだった。

 そういうわけで、何とか無事に授業を終えることができ、ぼくはほんとうにすがすがしい気持ちで、表参道の宴会場までの道を教え子たちと一緒に歩いた。

 春めいた東京の空が美しく暮れようとしていた。


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