28 ぼくの「最終講義」 その2

2015.3.29

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 「最終講義」の日取りは3月22日と決まっていたわけだが、何をどうやるかが一向に決まらなかった。どうしようかなあと、去年の9月に話があった時から頭の片隅でずっと思っていたのではあるが、そう思っているうちに年も明け、正月も過ぎ、やっぱりアレは夢だったんじゃなかろうか、なんて思っていたら2月の半ばになって、幹事から丁重なメールが届いた。

 青山高校の教室で、出席者全員でかつてと同じような席で1時間受講致します。出席簿も用意するので出席もちゃんととってください。その後、教室の掃除をして、宴会場に移動し、旧交を温める予定です、とのことだった。教材は必要ならコピーもしますから言ってください、と細かい心遣いがあったあとで、結びにはこうあった。「授業は、いつもの通り、昔の通り、自由自在になさってください。我々生徒たちも、きっと昔のままで、(流石に教科書に隠れて早弁はしないにしても)、そんなに立派なもんじゃないので、あまり難しくお考えにならないで下さい。一同、先生の授業を懐かしく、また一方では新鮮な気持ちで、楽しみにしております。」

 やっぱり本気なんだ。これはやばい。何とかしなくちゃ。なんて焦っているさなかに、嶋中教授の「最終講義」に出席し、その立派な講義ぶりに圧倒された。彼が用意した講義のレジュメは、裏表に細かい活字でびっしりのA4用紙が3枚もあった。聞けば、これを作るのに1週間かかったという。大学教授の「最終講義」なればこそであろうとは思いつつ、高校教師でもそれぐらいの気合いは必要だよなあ、見習いたいものだなんて感心しながらも、依然として何をどうやったらいいのか見当もつかないまま日は過ぎた。

 そもそも現役の時からそうだった。古典は、まだやることが決まっているからいいのだが、現代文の授業となると、教材は決まっていても、どのように授業を進めるかがいつも分からなかった。いちおうノートを作ってみたりはするものの、やっぱりうまく行くのかどうか心配で、いつも授業直前まで、迷い、悩み、あ〜、どうしようなんて思っているうちに、始業のベルが鳴り、教室への廊下を重い足どりで歩いたものだ。

 けれども、不思議なことに、いったん教室にたどりつき、生徒と挨拶したその瞬間、突然スイッチが入り、予定もしていなかったことが口をついて出てきて、そうなったら止まらない。延々としゃべり続けているうちに、いつの間にか授業が終わってしまう。その間、もちろんちゃんと文章の読解とか解説とかのいわゆる「授業らしいこと」もするのだが(しなかったら、それこそクビである)、いつも終わりの20分とか、15分とかで、初めの方は延々と長い枕だかなんだかしらないが、いわゆる「雑談」に終始して、生徒からも、「なんだ、今日は(も)授業はなかったあ〜。」と言われたりする始末で、(君たちねえ、「雑談」こそがぼくの「授業」なんだよ、と口を酸っぱくして言っても分かってもらえなかった。)ぼくの教師としての「最晩年」に至っては、中1を教えていたのだが、黒板にぼくの時間は「洋三先生──雑談力養成講座」なんて書かれる有様であったのだ。

 「最終講義」の1週間前になっても、ぜんぜん決まらないぼくにあきれ果てながらも、ヨウゾウらしい、と幹事たちはおおいに盛り上がったらしいが、このままでは準備もできないから(何の準備なのかは、後で知るところとなる)、せめて「お題」だけでもという懇願めいたメールが来た。ここまで来てさすがのぼくも腹を決め、こんなメールを書いた。

ところで、「お題」ですが「平家物語を読む」としておいてください。「なんでやねん。」と思うでしょうが「文学」って何なんのか、「言葉」って何なのか、「本を読む」ってどういうことなのか、などということを近ごろしきりに考えていて題材として「平家物語」を選んだということです。学問的な講義をするわけじゃないのでご安心を。

 いちおう「現代詩」を専門としているなんて生徒には言ってきたわけだが(専門といっても、ただ卒論が「室生犀星論」だったからにすぎない。)、なんで「平家物語」なのか。「源氏物語」なら、まだ読書会をやって曲がりなりにも「全巻読破」している。けれども、「平家物語」は、「高校を卒業するまでには全部読んでおけよ。」という国語の先生のお言葉にも従わず、いまだに半分も読んでいないのだ。けれども、「平家物語」を選んだのは、多分に嶋中教授の「最終講義」の影響があったようだ。彼の講義の中で、芭蕉がいかに木曽義仲に共感を寄せていたかということに気づかされた。そしてぼくが「平家物語」でいちばん好きなのが「義仲の最期」だったのだ。芭蕉と好みが一緒だというのが妙に嬉しかった。

 「平家物語」は栄光学園では中学3年の時に教える。いくつかの話が栄光学園オリジナルの古文の教科書『中学生の古典』に収録されているが、「義仲の最期」は長いから扱わないという教師もいる。けれど、ぼくは、何が何でもこの「義仲の最期」をやってきた。この哀切極まりない悲劇が、そしてそれを描く文章が大好きなのだ。そして、授業では、必ず自分で「朗読」をしてきたのだ。

 朗読は、国語の教師なら「範読」といって、必ず何度もしているはずだ。もちろん生徒を指名して、「音読」させることもあるけれど、作品を丸ごと味わわせるには、絶対に「範読」なのだ。これが数少ないぼくの「信念」だ。しかも、なるべく「朗読」といえるくらいのレベルが欲しい。だから、ぼくは、ずっと朗読を練習してきた。練習といっても、特別なことではなくて、ただ、授業で本気で読むということの繰り返しだったわけだが、たまには朗読テープを自作したこともある。

 この学年を教えている時だったと、この最終授業の後で生徒との話で知ったのだが、ぼくが愛する宮沢賢治の「青森挽歌」という長編の詩をテープに録音して生徒に聞かせたこともあった。当時はまだパソコンなどなくて、音楽を後で重ねるなどということもできないから、家族が寝静まった後、部屋に音楽を流しながら、ぼそぼそと読んで録音したものだ。およそ15分にもなるそのぼくの朗読を生徒はどんな気持ちで聞いたのか分からなかったが、今回、覚えていた生徒がいたので、それなりに心に残っていたんだと思って嬉しかった。

 まあ、そんなこんなで、「お題」は決まった。どっちみち雑談に終始して、まともな話などできないだろうから、せめて、授業の最後には、この「木曽の最期」の朗読をしよう。声がもつかどうかが心配だが、最後まで読めれば、何の説明をしなくても、ほとんど意味が通じるだろう。そのことの「不思議」を彼らもたぶん実感するだろう。それだけでいいじゃないか。それが結論。授業の前日、自宅のプリンターで、32人分の「木曽の最期」の本文のプリントを作った。

 準備万端。いや、準備はただテキストを作るだけ。嶋中教授のレジュメとは大違いだ。でも、いいや。あとは、その場で考えよう。そう考えて、翌日、いよいよ青山高校へと向かったのだった。

(つづく)

 


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