25 「源氏物語読書会」のことなど

2015.3.15

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 前回のエッセイ「仰げば尊し」で、「源氏物語読書会」のことをちょっと書いたが、もう少し書いておきたい。

 ぼくは、小学生の頃から理科好きで、「少年科学者の研究ノート」なんて本を(下に写真あり)を片手に、自分の部屋で(ぼくは小学校低学年のころから「離れの勉強部屋」を与えられていた。これについても、いずれ書きたい。)、二十日鼠を飼ったり、いろいろな実験に明け暮れたりしていて、中学に入学しても、何の迷いもなく生物部に入った。そしてその後も、生物学者になるんだとばかり、昆虫採集やら、カビの培養やら、海のプランクトンの観察(中学は海沿いだったので、海のプランクトンは取り放題だった。)やら、顕微鏡写真やら、もうありとあらゆる研究・観察に手を出していたのに、高校2年に進級するに及んで、突然「文転」した。

 何も好んで「文転」したわけではない。これは、もう何度も書いたことだが、数学がまったく(それも半端じゃなく、まったく)分からなかったからだ。それだけではない。数字がほとんど理解できなかった(というと大げさだが、数字が苦手)ので、数字が出てくる教科、数学は言うに及ばず、化学、物理は当然として、歴史もダメだった。大学にしても、当然、数字の出てくる経済学はダメで、記憶力もないに等しいから法律もダメ。ダメダメ続きで、残ったのが、文学部という話は、ぼくの「一つ話」で、このエッセイの読者には聞き飽きたと思われる方も多かろう。

 そういうわけで、全国の国公立大学でも、入試でもっとも数学の配点の低い東京教育大学(ちなみに、数学の配点は8分の1。東大は5分の1だった。)を高2になった時点で、志望校と定め、刻苦勉励したのだが、とうてい受かりそうになかったのに、奇跡としかいいようのない事情で、合格して、晴れて文学部国文学科の学生となったのに、まだ、生物学への未練を捨てきれず、「野外研究会」という自然保護関係のサークルにすぐに入った。

 入学直後、誰が言い出したのか忘れたが、「源氏物語」の読書会をしようという話が持ち上がり、総勢36名の国語国文学科のクラスの20名以上(不正確です)が参加したのだ。ぼくは、「野外研」に心を奪われていたが、やはり国文科に入ったのだから、それらしいこともしなくちゃと思ったらしく、読書会にも参加したのだと思う。

 そのうち、例の大学紛争(闘争?)である。5月には、学生がストライキに入り、大学の校舎をバリケード封鎖して立てこもった。ぼくは何がなにやら分からぬままに、クラスの一員として、バリケードの中で一夜を明かしたこともあるが、「闘争」には結局加わることなく、ノンポリとなって、あてどなくウロウロする始末となった。「闘争」が激化するにつれて、読書会のメンバーも1人抜け2人抜けしていくうちに、3人になってしまった。それが、嶋中道則と柏木由夫とぼくだったのだ。

 ぼくは、大学1年の夏休みに、「野外研」が伝統的に引き受けている「尾瀬自然保護監視員」のバイトで7月の末から8月の中旬までの約半月を尾瀬で過ごした。(こちらをどうぞ)美しい尾瀬の自然の中で、さまざまな仕事をした。植物のカラー写真もたくさん撮った。まさに、毎日が夢のように楽しい日々だった。

 ところが、その尾瀬から帰った日の夜、ぼくは重大な決心をした。「野外研」をやめることにしたのだ。「野外研」は、ほんとうに楽しかった。尾瀬の生活もぼくの理想の生活だった。こんな生活ができたらと心から思った。けれども、ぼくが入学したのは、生物学科ではない。国文学科だ。高2になるとき、生物学は趣味にしておこう、と決めたはずだ。このままでは、ぼくは、ほんとに中途半端な人間になってしまう。そうだ、明日からは、国文学一筋でいこう。そう決意したのだ。

 その翌日、「野外研」の先輩に会い、やめることを伝えた。ぼくはその時すでに「野外研」の主要メンバーと目されていたから、先輩は非常に驚いた様子だったが、ぼくの気持ちをよく理解してくれた。

 「野外研」ときっぱり縁を切ったぼくには、国文学しか残っていなかったのだが、肝心の大学は、6月から大学側のロックアウトで、授業はおろか、構内に入ることすらできなかったのだ。ぼくに残ったのは、つまり、「源氏物語」の読書会しかなかったのだ。ぼくは、その読書会を、ぼくの大学生活の主軸としたのだった。

(つづく)

 

 


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