26 「源氏物語読書会」のことなど(承前)

2015.3.22

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 「読書会ってどうやるの?」って聞かれることがある。「読書会のやり方」なんて本があるわけではないし(あるかもしれないが)、誰かから「こうしたらいい」と聞いたわけでもないから、答えようがないが、あえて言えば「本をみんなで読む」ということだろうか。

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だったか『罪と罰』だったか忘れたが、何人かが集まって、ただ、割り当てられたページだけ音読するだけっていう会があると聞いたことがある。そういう「読書会」もあるのかもしれない。また、桑原武夫の『文学入門』では、確か、『アンナカレーニナ』の「読書会」のことが書かれていたような記憶がある。やり方がどういうものだったかは、忘れた。

 要するに、同じ本を読んできた何人かが集まって、いろいろ話すというのが一般的な「読書会」なのだろう。

 「源氏物語読書会」も、言い出しっぺが誰だったか忘れたが、とにかく出だしは、20人ぐらいは集まって、まずは「桐壺」から読み出した。どういうやり方だったか覚えていないが、とにかく、ぜんぜん先へ進まなかったことだけは覚えている。そのうち、前述したように、大学は閉鎖され、ぼくらはあてどなく学校の周辺をウロウロするはめになり、ぼくは、「野外研」を辞めて、この「源氏物語読書会」を生活の中心にしたのだが、結局残ったのは3人で、それでも、まだ「桐壺」を読み終わっていなかった。

 こんなノロノロじゃ、とうてい卒業までに読み終わらないよ、とにかく、先へ進もう、と誰かが言い出して、1回の読書会について1巻を読むことにした。読書会は、だいたい週に1回程度だったが、とにかく、1巻について1人が「担当者」となり、できるだけその巻について調べて、それを発表する、ということにした。他の者は、もちろん、読んでおかねばならない。テキストにしたのは、岩波古典体系『源氏物語』。その頃は、この本が唯一のテキストといってよかった。

 読書会までに、とにかく1巻を読み切っておかねばならないというのはかなり大変だった。しかし、ごまかすわけにはいかない。よく分からないところがあっても、とにかく読む。そして、読書会当日になる。集合場所は、たいてい学校周辺の喫茶店だった。「白樺」という喫茶店の名前だけはよく覚えている。そしてコーヒー1杯で、最低でも2時間はねばるのだ。

 あるときは、ぼくの家に集まったりもした。また、大学1年の担任だった中古文学の鈴木一雄先生が、ぼくらの読書会の噂を聞いて、それならぼくも入れてよとおっしゃって、ご自宅に招いてくださったことがある。まったく大学再開の見通しもたっていなかったころなので、嬉しかったが、それも大学の混乱の中で先生にも時間がなくなり、結局2〜3回で終わってしまい、ぼくらはまた3人で、ほそぼそと読み続けるしかなかった。

 「読書会」の実態はというと、「担当者」の説明があって、それぞれが感想を述べる。「紫の上」というのはエライねえとか、嫉妬というのは怖いもんだねえとか、そもそも源氏って男は、なんでこう女に手がはやいのかねえ、などと、そんな感想をウダウダと言い合うわけだが、今思えば、ずいぶん優雅な時間だったと思う。その数時間は、学校内外の喧噪をわすれ、平安時代の空気を存分に吸うことができた。そして次第に、源氏物語の文学としての素晴らしさに目覚めていったのだった。その頃は、日本文学の中で、この『源氏物語』を超えるものはないのではないかと痛切に思ったものだし、その感想は基本的には今でも変わらない。もちろん、文学の価値などは、どれが一番なんて決められるものでもないし、決めようとすること自体がナンセンスだが、やはり『源氏物語』は、途方もない深さを持った文学であることは確かだろう。

 『源氏物語』をとにかく読み終わったのは、それから1年ほど経ったころだろうと思う。最終巻を読み切ったときは、なんともいえない達成感があった。その勢いで、西鶴の『好色一代男』を読み、それも読み終わったので、『堤中納言物語』へと進み、それが読み終わったころに、なんとなく読書会にも「終了感」が漂いはじめた。やはり、「読書会」は、とても1人では読み切れないほどの重厚な長編がいいということだろう。

 世の中はまさに「政治の季節」だったのだが、学生運動に熱中する友人たちからは、優柔不断だとか、日和見ノンポリだとか、君はこれからの日本がどうなってもかまわないのか、とか問い詰められ糾弾され、ある教授たちからは、デモにも行かずアルバイトしてるヤツより、ゲバ棒持って闘っているヤツのほうがよっぽどエライなどと言われる始末で、まるで、行き場のないぼくらだったのだが、そんな中、『源氏物語』を「読む」ことで、辛うじて「学問」にしがみついていたのだろう。ぼく自身は、その「学問」への綱すら手放してしまったわけだが、他の2人は、その後もその綱を放すことなく、「学問」の道を歩み続けている。

 


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