24 仰げば尊し

2015.3.8

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 2月のはじめころ、見知らぬ女性から封書が届いた。宛名には「山本洋三先生」とある。けれども、教え子に心当たりはない。不審に思って開封してみると、嶋中道則先生最終講義への招待状だった。

 嶋中道則というのは、大学時代の数少ない友人である。東京学芸大学の教授として長らく勤めてきたが、この3月で定年退職ということになったので、その最終講義を行う、というのだ。

 大学時代の数少ない友人と書いたが、これはもうほんとうに少なくて、他にはもう一人、現在大妻女子大学教授の柏木由夫がいるにすぎない。ぼくらの過ごした大学は、いまはなき東京教育大学だが、その文学部国語国文学科というのは、36人のクラスだった。東大などと違って、入学時から専攻に別れていたので、その他の学科、学部の人たちとは交流がほとんどなかったうえに、前代未聞の大学紛争の時期と重なっていたために、入学して一月も経つか経たないうちに、学生による大学校舎のバリケード封鎖・占拠、そしてあっという間の機動隊導入による大学のロックアウトという事態となり、大学が「正常化」したのは、何と翌年の11月だった。当然、1969年の大学入試は、東大とともに中止。35人の級友も、様々なセクトに入ったりしてチリヂリバラバラ。どこにも行き場のない、ぼくと嶋中と柏木は、入学直後から始めた「源氏物語読書会」(最初は20人ぐらいいたはずだ、どんどん抜けてゆき、結局3人だけが残った。)を、学校の周辺の喫茶店に集まり、コーヒー一杯で2時間以上もねばったりして、細々と続けた。時には、我が家に2人が来て、読書会をやったり、嶋中の20歳の誕生日のお祝いをしたりしたものだった。

 苦難の時代としかいいようのない時代だった。この辺の詳細を書いていると、いつまでたっても終わらないから、また折りに触れて書くこととして、さて、その嶋中先生の「最終講義」である。

 ぼくは、大学をまるで逃げるようにして卒業したあと、すぐに都立高校に就職し、二度と大学の門をくぐることはなかった。(もっとも、高校の進路担当として、いくつかの大学の説明会に行ったことは何度かあるわけだが。)栄光学園時代でも、研修制度を使えば、大学院などに一年間通えるのだが、なにしろ、東京教育大学は廃学となってしまい、筑波大学へと引き継がれてはいたが、ぼくの中では、自分の大学はなくなってしまっていたのだ。大学院の受験をせずに、高校の教師になる道を選んだぼくにとっては、大学は、無縁のものと思い定めていたのだ。この辺の事情も書けば長くなるので、省略。

 柏木と、武蔵小金井の駅で待ち合わせ、バスで、学芸大に向かった。5分ほどで正門前に着いたが、広大な敷地である。学芸大というと、ぼくなどはすぐに東横線を思い出すわけだが(今でも「学芸大学」という駅名が残っている。)いつの間に、こんな辺鄙な(失礼)ところに引っ越したのだろうか。それにしても、去年大きな病気をして手術をした嶋中は、果たして、ちゃんと講義ができるのだろうか。せっかくの最終講義にぼくらを呼ぶくらいだから、よほど聴講者が少ないのだろうか。10人ぐらいしかいなかったらどうしよう。そんな不安ばかりが、招待状をもらった時からぼくの中にはあったのだが、柏木も似たような不安があったらしい。そして、講義のあとに、懇親会もあり、そちらにもご出席くださいと書いてあったが、その懇親会もいったい何人来るのだろう。人数が少なくて、白けてしまってはいけないから、せめて、話題作りになればと、学生時代に撮ったぼくらの写真をアルバムにして持って行った。若い嶋中の姿をみれば、いっときでも盛り上がるだろう……。

 教室の前で、何人もの学生が、受付をしている。かなりの人数が集まっている。3時半に始まるというので、30分前には着いたのだが、教室にはすでに10人以上の人たちがいるようだ。40年以上も入ったことのない、大学の教室。ワクワクする。

 入って驚いた。教卓の上には、大きな花瓶に生けられた豪華な花。そして、黒板の端から端までいっぱいに掲げられた「嶋中先生最終講義『俳枕と軍記』」の墨書。

 スゴイ! とぼくと柏木は思わず声をあげた。二人して半ば茫然としているうちにも、会場には続々と人が詰めかけ、講義が始まるころには、100人ほどはいる教室が満席となってしまった。ぼくは中学高校しか知らないし、今まで「最終講義」などというものを見たこともないのだから、驚き茫然とするのも無理からぬことだが、柏木は、大学教授なのだから、いくら学芸大とは無縁だからといって、ぼくと同じレベルで驚くのはオカシイと思うのだが、大妻の日本文学科では、そもそも「最終講義」という習慣がないのだそうだ。彼が言うには、たとえやったとしても、人なんか集まらないよ。学芸大の卒業生や教員も多いだろうから、卒業生とのつながりも強いんだね、大妻の場合は、卒業したらそれっきりが多いからねえ、とのことだった。

 ふ〜ん、そういうことかあ、それにしても、嶋中は大丈夫か、そればかりが気になった。始まる前に、教室にあらわれた嶋中は、いちばん後ろのほうに座っているぼくらのところにやってきて、「やあ、来てくれたの。ありがとう。疲れたら、途中でやめるよ。」と言う。どうか、無事おしまいまでできますように、という祈るような気持ちになった。

 同僚の教授2人によって、嶋中先生のプロフィールや業績などが紹介され、いよいよ「最終講義」が始まった。考えてみれば、大学に入学して以来のつき合いだが、彼の講義を聴いたことなどあるわけもない。いったいどんな講義をするのか。

 見事の一言に尽きた。詳しい内容については、いずれどこかで書く機会もあるだろうから、ここではまたまた省略するが、彼が40年の歳月をどのような研究に捧げてきたのかがよく分かった。そして古典文学というものが、どこまでも奥の深い世界であること、そして更に、古典文学がどのように「現代」の問題と直結しているかということ、それが、膨大な知識を背景にきちんと語られた。学問の世界を遠く離れて生きてきたぼくのような者にも、まだまだ勉強すべきことはたくさんあるなあとつくづく思わせる力があった。「疲れたら、途中でやめる」どころではない、時間さえあれば、いつまでも話しそうな勢いだった。

 懇親会は、学芸大の同窓会のような和気藹々の雰囲気の中で行われ、嶋中は、ほんとうに嬉しそうだった。その満面の笑顔がぼくにはたまらなく嬉しかった。あの悪夢のような大学時代の苦難を乗り越えて、よくここまで頑張ってきた。そして、こんなにも多くの人に慕われて、大学を去ることができた。あんたはエライ! と一声叫びたかった。

 そこに集まっている人たちは、誰も知らない。嶋中が、新入生コンパの時に言った一言を。「ぼくは、生の芋をかじっても勉強するつもりで東京へ出てきました。」その一言がぼくを魅了し、嵐の大学時代を、柏木とともに、3人で乗り切ってきた。その嶋中があんなに立派な講義をして、あんなに多くの人をうならせた。そして、今、多くの先輩、同僚、教え子たちに囲まれて喜んでいる。涙の出る思いだった。

 柏木とぼくは、盛り上がる会場をそうそうに辞し、武蔵小金井駅前の居酒屋で、飲んだ。柏木が言った。「ぼくらはさあ、嶋中にずいぶん教えられたんだねえ。歌舞伎や能や狂言なんかをあんなに見たのも、結局嶋中のおかげだったんだねえ。」

 そうか、あの「空白の時代」、ぼくら3人は源氏物語を読むだけではなく、ありとあらゆる芝居を見に劇場に通った。「野村狂言の会」「鐵仙会」などの学生会員となって、毎月見にいった。それらは、みんな、嶋中が誘ってくれたのだ。そうでなければ、「野外研究会」などというサークルに入学と同時に入り、まだ高校時代の「生物学者への夢」を引きずっていたぼくが、突然古典演劇の世界に目を開くなどということは起こりえないことだったはずなのだ。

 そうかあ、初めてオレは気づいたよ。みんな自分から始めたことだったと今まで思っていた。でも、みんな嶋中のおかげだったんだね。そうか、嶋中は、エライヤツだったんだ。ちっとも知らなかった……。

 そんなことを酔っ払って話しながらも、いやいや、オレはずっと嶋中をエライヤツだと思っていた。彼にはどうしたってかなわないと思っていた。ただ、かれの「学恩」をすっかり忘れていたんだ、と考えていた。


(訂正)以下の2箇所を、訂正しました。

その文学部国語国文学科というのは、35人のクラスだった。→その文学部国語国文学科というのは、36人のクラスだった。

大妻では、そもそも「最終講義」という習慣がないのだそうだ。→大妻の日本文学科では、そもそも「最終講義」という習慣がないのだそうだ。

 


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