14 この一年、あるいは「変化」について

2014.12.28


 狂言のセリフではないが、イヤ! 何かと言ううちに、年の瀬である。

 思えば、去年の今頃は、検査入院からいったん退院して家に戻り、正月10日の大手術をひかえて、身も世もあらず、毎日を息も絶え絶えといったありさまで過ごしていたはずなのだが、どうもそのディテールをよく覚えていない。悟りきった、あるいは開き直った気分というのでは絶対なかったし、そうかといって絶望的になっていたわけでもない。ただ、「尊厳死」のことを考えて、余計な延命措置はしないでもらいたいといった旨の書類を作って実印も押して家内に預けたり、もしこんどの手術で不幸にして死んだ場合は、オレのブログが宙に浮く、というか成仏しないでネット空間をさまようはめになるからというわけで、同居している次男にパスワードを書いた紙を封筒に入れて渡し、もしそういう事態になったら、お前がブログに「このブログの作者は死にました」という主旨のことを(もちろん表現は考えて)掲載して欲しいといったところ、まあ、分かったけど、それは手術が終わった後でいいから、どこか机の引き出しにでも入れておいたらどうかと言われ、それもそうだなということで、その封筒を机の引き出しに入れた。そして、その封筒はまだ、そのまま引き出しの中にある。ちなみに「尊厳死」ウンヌンの紙は、まだ家内が持っている。

 まあ、そんなことをしながら、不安でいっぱいの正月を迎え、それでも、ぼくの母と家内の母の米寿のお祝いを我が家で大騒ぎでやって、だれもぼくの手術のことなんか忘れてしまったかのように振る舞ってくれていたわけであった。

 年末のエッセイは、ときどき「一年を振り返る」というテーマで書くことがあったのだが、さすがに去年の年末エッセイは、そんな気分ではなくて、「光について」なんて、精一杯気取った文章を書いた。その終わりの方で「こうした悲しみにくれる桐壺の更衣の母へあてた帝の手紙が、その母には『闇を照らす光』となるというのだ。つまり、ここでは『言葉』が『光』となっているのだ。そして言うまでもないことだが、『光』は結局『愛』だろう。」なんて書いているが、これはもちろん、その当時、ぼくの病気を知って、いろいろと励ましの言葉をかけてくれた家族・友人・知人の「言葉」が、ほんとうに文字通りぼくの「光」だったからで、そのありがたさは今でも忘れていない。

 さて、そんなこんなで、この一年も慌ただしく過ぎ去ろうとしている。今年は、少しはゆっくりと一年を振り返ることができるわけだが、ここではできるだけ簡潔に振り返りたい。

 1月はとにかく手術とそれにともなう入院。6日に入院、10日に手術、そして25日に退院した。たしか2月に入って2度も大雪が降った。退院して間もなくなのに、雪かきをしてみたが、5分と持たなかったのには驚いた。(雪かきするほうが驚きだが。)手術後、予想されていたとはいえ、声がかすれ、1週間もすれば出るようになると言われていたのに、退院しても出なかった。このまま死ぬまでカスレ声かと心配する日々が続き、結局、まともに声がちゃんと出るようになったのは4月に入ってからだった。

 その声が出ない日々の間に、栄光学園退職の送別会が、国語科と学校とで、3月に2回もあり、それぞれかすれた声で挨拶し、とくに学校のほうの送別会では、マイクを持つなり「コンバンワ、森進一です。」と言って見事ツカミに成功し、「詳しくはウェブで。」というオチで喝采を浴びていい気になった。「芸人根性」は依然健在であったのだ。(ぼくの教師人生を支えていたのは、この「芸人根性」だったと「自負」している。いや、これでは言い方がおかしい。教師の「芸人」的な部分が好きだったから、ぼくは42年も教師をやり続けることができたというべきだろうか。ま、どうでもいいことだが。)

 3月から始まった、教科書の編集会議も、声が出ないので、アマゾンで買ったハンディマイクを持ち込み、なんとか乗り切ったが、4月の中旬になって、突然声が戻った。ほんとにこれは嬉しいことだった。ぼくみたいなおしゃべりな人間にとっては、声が出ないということはすごいストレスとなるわけで、そのイライラ感はたっぷり味わった。だから、先日、どこかの知事さんだったかが、手術で声帯を失ったために喉から特殊なマイクで声をひろうことでしのいでいたら、「声が聞き取りにくいから辞職しろ」と言われたというニュースにはひどく腹がたった。思いやりのない社会である。

 入院中は、退院したら一緒に旅行でもしようと家内と話していたが、なかなか諸般の事情でそうもいかず、11月に叔父の葬儀で母と叔母と一緒に糸魚川へ行ったのが、結局唯一の遠出だったわけだが、久しぶりのぼくの「第二の故郷」は、親戚の人々やその変わらぬ風景がしみじみと懐かしかった。

 日常生活でいえば、4月以降は、学校を完全に退職したので、ほんとうに楽になった。夢にまでみた定年後の「自由な人生」であるが、やっぱり、それなりにいろいろメンドクサイこともおおく、「夢にまでみた」ほどの素晴らしい日々ではもちろんない。(「夢」とその「挫折」を、プルーストはえんえんと書いている。)

 ただ、9月の末から始めたフェースブックは、そんなぼくの平凡な日々にかなりの変化をもたらしてくれている。生活そのものが変わったわけではないが、交友が少しだけ広がり、視野もちょっとだけ広くなった(ような気がする)。ひょっとしたら、これが今年の2番目のトピックかもしれない。そのフェースブックで、金沢大学の杉山先生が、素人の書いた小説を読んでいて、面白くないのは、主人公が「変わらない」小説であると書いておられた。結局それは作者がちっとも変わらないからなんだろうとも。

 今年は手術を体験して、ぼくの中で何かが変わったのかもしれない。手術直後は確かに劇的な変化があったが、喉元過ぎれば何とやらで、徐々に「元の木阿弥」になりつつあるが、それでも、やっぱりどこかが変わったはずなのだ。何がどう変わったのかは、うまく言葉にはならないが、とにかく、来年も、変わり続けていきたいと思う。そうすれば、究極のマンネリたるこのエッセイも、少しは面白いものになろうというものだ。

 一年間、ご愛読まことにありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い致します。


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