13 失われた言葉を求めて

2014.12.21


 フェイスブックで、プルーストの「失われた時を求めて」を読むぞと「宣言」し、毎日どこまで読んだかだけを「報告」するということをやっているうちに、いつの間にか、ちくま文庫版の第1巻も読み終わりそうになってきた。

 しかし、そこに何が書いてあったのかということをすぐに忘れてしまうので、いいなあと思った部分を書き出して、ブログの方に「ぼくの切抜帖」と称したカテゴリーに「収納」しているのだが、それとても、そうそう頻繁にできることでもないから、ま、ここはちょっといいけど、切り抜くほどのこともないかと思って、通過してしまって、さて、数日たって、何かどこかでいいこと言ってたよなあと思って、「そこ」を探すのだが、一向に見当たらないということがよくある。まさに「失われた言葉を求めて」さまようという事態になるわけである。

 「切り抜く」と言っても、結構長く切り抜いたりしているので、読者の中には、これをいちいちキーボード使って打っているんだなあ、ヒマな人だなあと呆れている方も多いと思うのだが、それはちょっと違う。(もちろん、ヒマはヒマですが。)

 ちくま文庫版「失われた時を求めて」全10巻は、数年前に、「自炊」して、iPadに入れてあるので、それを読んでいるのである。今まで、文庫や、プルースト全集やらで読もうとしてきたのに、どうしても100ページくらいで挫折してしまったのだが、それが今回続いている(少なくとも今日までは)のは、フェイスブックでの「報告」という一種の「読むことの義務化」によるところも多いが、それ以上に、この「自炊=自分自身で本を電子書籍化すること」によるのだとおもわれる。何しろ、老眼で、メガネなしではまったく本を読めない身としては、iPadでみる「電子書籍」の恩恵は計り知れないのである。その「恩恵」とは、もちろん、字が大きいということである。(ちなみに、今同時進行で、トルストイの「復活」を読んでいるのだが、これも岩波文庫を買ったら、字が小さくて読む気にならないから、すぐに「自炊」して、iPadで読んでいる。)

 「恩恵」はそれだけではない。ここを切り抜きたいと思ったときに、自炊してある本は、専門的に言うと「PDFファイル」になっているので、切り抜きたいページだけを、テキスト化できる。すると、その部分をテキストとして抽出できるから、キーボードで打たなくてもいいのである。いわゆる「コピペ」ができるということなのだ。

 しかし、先ほど述べた、いいなと思った部分を探せないという事態になると、やはりどうしても「検索」したくなる。たとえば、「失われた時を求めて」の中で、音楽について的確な表現があったなあというときに、本をめくって(iPadでめくって)「音楽」という言葉を探すのはなかなか大変だ。で、先日、第1巻を丸ごと「テキスト化」してみた。これは、言うほど難しいことではなくて、ちょっとした指示をすれば700ページぐらいでも15分ほどで自動的にやってくれる。こうすると、今度は「検索」が自在にできるようになる。

 「音楽」で検索すると、その言葉が出てくるページがビシッとでてくるのは快感だ。「索引」のついている紙の本なら、そんなことは簡単だが、「失われた時を求めて」の本には「索引」なんてついていない。とすれば、「自炊」して、さらに「テキスト化」を施した「失われた時を求めて」は最強の読書ツールだということになる。

 ちょっと話が専門的で、わかりづらいと思うが、要するに、「失われた時を求めて」という小説は、「読み流す」ことができない、「筋を追って読む」ことができない(いや、できるにはできるが、あまり意味がない)小説であり、その細部を、何度も繰り返して読むことによってこそ、その真の魅力が分かるのではないか。それには、テキスト化された「自炊本」こそ、少なくとも現時点では、もっとも望ましい本のカタチではないかということなのである。


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