12 「気狂いピエロ」あるいは記憶の不思議

2014.12.14


 長いこと読みたいと思い、現実に読み始めもしながら、いつでも数10ページもいかないうちに次の日に読もうとおもって本を閉じると知らないうちに何年も経っていて、さて続きを読もうかと再びその本を開いても、どこまで読んだのかさっぱり思い出せず、結局最初のページから読み始めることになるのだが、きまってまたどこかで読書が頓挫してしまう、そんなふうにして初めて読もうとその本を手に取ってから40年たってもまだ冒頭から100ページほどを超えていないという類の本があり、その中でもぼくにとっての代表格は、何と言ってもプルーストの「失われた時を求めて」である。

 そんな本は他にもあって、たとえば、「平家物語」。「失われた時を求めて」に比べれば、ずっと短い物語なのに、そして、「源氏物語」は大学生の時に全巻読破しているのに(もっとも、これは仲間との読書会のおかげだが)、この物語は、高校時代に読み始めているのに、まだ半分も読み終わっていない。あるいは、「ドン・キホーテ」。これなんかは、「源氏物語」に比べれば、ずっとユーモアに富んでいて、さっさと読み進められるはずなのに、どうしても数10ページでとまってしまう。

 というようなことがあるものだから、近ごろ始めたフェイスブックに、「まだ読み終わっていない長編」とか題して、何編かの作品を挙げてみた。そのとき、ふと、「失われた時を求めて」をこの際また読み始めてみようかと思い、すでに「自炊」して、iPadに入れてある、ちくま文庫版の井上究一郎訳で読み出した。ついでに、フェイスブックの方には、どこまで読んだかだけの「報告」をアップした。そんなふうにして「毎日少しずつ」を心がけて読んでいるうちに、あっという間に、第1巻、第1部の「コンブレー」を読み終わってしまった。10回以上に及ぶ「挑戦」のなかで、初めてのことである。

 どこまで読んだかをいちいちフェイスブックにアップするという「義務」を自分に課すことで、「今日はいいや」というのが避けられる。それがいいのかもしれない。

 ある日、フェイスブックのコメントに、教え子が、ゴダールの「気狂いピエロ」にプルーストの言葉が引用されていて感動したことがあるということを書いてきた。「気狂いピエロ」は、大学生の頃に見た記憶があるが、覚えているのは、ラストのダイナマイトだかの爆弾を頭の周りにグルグル巻きにしたジャン=ポール・ベルモンドの姿だけである。後のシーンはとんと覚えがないし、どんな話の筋だったかも忘れていた。「よく分からない映画」としてしか記憶に残っていなかった。当時ぼくは、パゾリーニだとか、フェリーニだとか、ヴィスコンティだとかいった監督の映画に入れ込んでいたが、ゴダールはあまりピンとこなかったのか、他には「勝手にしやがれ」とか「アルファヴィル」とか以外は見なかったように思う。

 そういうわけだから、「気狂いピエロ」にプルーストの引用があるなんてことはまったく初耳だったので(なんという無知!)、とにかくDVDを買って(1000円ほどだった。安い。)見た。ところが、アマゾンの批評にもあったとおり、日本語の字幕が不親切きわまりなく、どこがプルーストの引用なんだかさっぱり分からない。映画の冒頭あたりで、ジャン=ポール・ベルモンドが風呂に入ってタバコを吸いながら(こういうシーンは他の映画でも時々あるが、タバコが濡れないだろうかということばかりが気になる)、本を子どもに読んで聞かせているその本がどうもプルーストらしいとあたりをつけたが、どうもはっきりしない。

 そんなこんなで映画を見すすんだが、ほとんどの、いや全部のシーンがまるで初めてみるかのようで、果たしてオレはこの映画を大学生の時に本当に見たのだろうかとずっと疑い続けなければならないほどだった。あいかわらず「よく分からない」ことには変わりはなかったが、それぞれのシーン、音楽、挿入される絵画、唐突な事件の連鎖、ベトナム戦争批判、などなど、興味が尽きなかった。

 まるで初めてみるかのように見たこの映画のことを、見終わって数日して思い出してみると、それぞれのシーンが、実はずっと以前にも見たことがあったような不思議な感覚に襲われた。もちろん、ぼくは大学生の時に「気狂いピエロ」を見ているのだから、当然といえば当然なのだが、つい2〜3日前には、まったく初めて見るような思いで見ていたのだから、ちょっと驚いた。それはまるで、池の底に沈んでまったく「ある」とも思わなかったモノが、池の水のちょっとした揺らぎにあっというまに水面に姿をあらわしたかのようでもあった。

 人間は、生まれてこのかた、様々な体験をするなかで、記憶を形成していくのだろうが、そのほとんどを忘れてしまうかのようにみえる。けれども、実は、人間はすべてのことを記憶していて、それが厚い層になって脳のどこかに存在しているのではないか。そしてときどき、その厚い層が崩れ、他の層と混じり、表面に浮かんだりするのだろう。

 プルーストは、こういう記憶のありようを、あの長い小説を使って、探究していたのだろうと思うと、「失われた時を求めて」にも興味は尽きない。


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