11 「けろっとしている」

2014.12.5


 「ぼくの切抜帖」でも取り上げたが、荒川洋治の次の文章には、いたく共感した。もう一度引用しておく。

高校のとき、よく図書館でそういう人を見かけた。たいていは女の子で、ともかくたいへんな量を読んでいくのである。「失われた時を求めて」は読むわ「ジャン・クリストフ」は読むわ「魔の山」は読むわ。「夜明け前」は読むわ。そしてけろっとしているのだ。えらい人だと思うけれど、こういう人は学校を出たら突然読書と無縁になり読書そのものから「卒業」してしまうことが多い。むしろ、あれも読まない、これも読まないという人のほうが、そのあとも気になるので「晴れない」気持ちをかかえながら、読書の世界にへばりついていき、おとなになっても書物とつながっていくのだ。そういう例は多い。

 これのどこにもっとも共感したかというと、「けろっとしている」という表現である。絶妙である。

 この「けろっとしている」というのは「けろりとしている」ともいうわけだが、この「けろり」は、辞書には、(1)何事もなかったように平然としているさま。「ミスをした当人が──としている」(2)跡形もなく消えてなくなるさま。すっかり。「痛みが──ととれる」「──と約束を忘れる」(デジタル大辞泉)と説明がある。ちなみに「日本国語大辞典」では、(1)何事もなかったように平然としているさま、また、図々しいくらい平気なさまを表わす語。けろけろ。(2)状態が前とすっかり変わったりするさまを表わす語。けろけろ。(3)こだわりのない明るいさま、また、曇っていた空などが明るく晴れわたるさまを表わす語。けろけろ。となっていて、(2)は、大辞泉とはニュアンスが異なり、また(3)が大辞泉にはない説明で興味深いが、それよりも、いちいち「けろけろ」という言い換えが出てくるのが、何だ、辞書のクセにふざけてるのかと気になってよく見ると、そうでもなくて、(1)の用例では、*初稿・エロ事師たち〔1963〕〈野坂昭如〉二「やがて、どんなに威張っとる男でも、いわれるままにケロケロと服を脱ぎ」というのが挙げられており、けっこう最近(いや、もう50年も前。最近とは言えないなあ。)まで使われていたことになる。ちょっと驚く。今ではこの「けろけろ」はまず使わない。ぼくも、あんまり使った記憶がない。

 ま、それはそれとして、「けろっとしている」はよく使う。こっちが本題。

 つまり荒川が言うのは、女の子が、「失われた時を求めて」「ジャン・クリストフ」「魔の山」「夜明け前」といった古典ともいうべき長編小説を片っ端から読破して、それでいて「けろっとしている」というのである。つまり、そんなに膨大な本を読んだにもかかわらず、「何ごともなかったように平然としている。」あるいは、「それを読んだ形跡がすっかり消えてなくなっている。」というのである。もちろん、日本国語大辞典の(2)のような意味で使っているわけではない。

 そういう背景には、それほどの大長編を「読んだ」からには、すっかり、とは言わないまでも、多少は人格が変わっているはずだ、あるいは影響を受けて前とはちょっと変わってもおかしくない、という荒川の思いこみがあるのだろう。それなのに、「失われた時を求めて」を読んでも、「魔の山」を読んでも、「けろっとしている」。それがフシギでならなかったということだろう。

 「えらい人だとは思うけれど」とフォローしているが、口の悪い人間なら、「何だ、それじゃ、読んだ意味ねえじゃねえか。」って言うところだ。少なくとも、ぼくなら口に出して言わないまでも、心の中で言うだろう。

 そういう友人がいた。小学校の同級生で、中学受験のとき一緒に小さな私塾で勉強した。やたら将棋の強いヤツで、先生が来る前にときどき将棋をさしたが、ぼくは何もしないうちに負けていた。3分とかからなかった。ぼくは呆然として、以後二度と将棋をさしたことがない。

 彼は、ぼくとは違う中学へ行ったので、その後はつき合いもなかったのだが、高校のとき、近所なので、ばったり会った。彼の家は、新聞の販売店と本屋を兼ねていたように思うのだが、たぶん、その本屋へぼくが立ち寄った時だったのだろう。そこの本棚に並んでいた中央公論社から当時出ていた「世界の名著」(全81巻)に話題が及んだとき、彼は、「ああ、これ全部読んだよ。」とこともなげに言ったのだ。このときの衝撃をいまだに忘れられない。衝撃というのは、まさに衝撃で、感動ではない。「それって、いったいどういうことなの?」っていう衝撃だった。その衝撃はまさに彼の「けろっとしている」としか言いようのない態度(というか、存在、というか、人間のありかたというか……。)から来ていたのだと、この荒川の文章を読んで納得したのだった。初めてその「衝撃」の正体に、言葉を与えられたと言う思いだ。

 もともと理系で、生物学者たらんと思っていたぼくは、文学とは縁遠く、高校も2年生になって、文学部へ行こうなどと思ったものだから、それこそ何か読めば「けろっと」なんてしていられなかった。読む度に、影響を受け、ものの見方、感じ方までもが、どんどん変わっていった。周囲の文学青年からバカにされようと、堀辰雄の「風立ちぬ」を繰り返し読み、冒頭の数頁はほとんど暗記できたし、「星の王子様」に至っては、ぼくの人生観の根底を築いてしまったような気がする。

 ぼくが、あの時代、もし「世界の名著」全81巻を「全部」読んだとしたら、81回も人生観を変えなければならなかっただろう。そう思うとオソロシイが、そんなことぼくにはできるはずもなかったのだから、今更オソロシがることもないわけだ。

 ぼくには「読みさし」の本が山ほどあるから、いまだに「気が晴れず」、本にしがみついているうちに、ずいぶん歳をとった。それでも、山ほどある「読みさし」の本は、今でも少しずつ、幸福を与えてくれている、ように思われる。


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