8 比較は不幸のもと

2014.11.17


 フェイスブックを見た人の70パーセント(ぐらい)が不幸になる、というようなネットの記事を、フェイスブックを見ているときに見つけた。

 どうしてかというと、フェイスブックの記事は、「ポジティブな自分」を前面に出しているから、そこから想像される私生活が眩しく感じられて、それにくらべてワタシの生活ってなんてミジメなの、って思ってしまって落ち込むということのようだった。

 これを読んで、二つのことを感じた。ひとつは、フェイスブックの記事は必ずしも「ありのまま」じゃないんだということ。場合によっては、フィクションかもしれないってこと。もうひとつは、やっぱり「比較は不幸のもと」ってこと。

 そういえば、ちょっと前に、フェイスブックに熱心なある大学教授の先生が、「フェイスブックが始まったとき、ミクシィは潰れるって思ったけど、そうじゃなかった。フェイスブックはポジティブな自分を表出する場で、ネガティブな自分を表出したい人はミクシィに行ったんだね。」というようなことを言っていた。ミクシィを知らないぼくは、へえ〜って思っただけだったが、実際にフェイスブックをやってみると、確かに、そこに出てくるのは、父親だったら可愛い我が子の写真だったり、大学生だったら飲み会の写真だったり、中高年だったら、海外旅行の写真だったりして、あんまり「不幸なワタシ」は登場しない。

 ぼくだって、そんなところに、高齢者のミジメな心境など吐露しないし、身の上に起こった不幸な出来事なども書かない。せいぜい、新幹線の中で、隣に座った母と叔母の会話の声が大きくて、周囲に気をつかって疲れたといったレベルの、不幸とも言えない不幸を書くぐらいだ。

 それ以上に、やれニコンの高級カメラを買っただの、それでは気が済まなくて、ツァイスのレンズまで買っただのと自慢し、これはツァイスのレンズで撮りましたなんていって、面白くもない雑草のクローズアップレンズで撮りまくった写真を何枚もアップしつづける。そんな記事を読んだ人は、ぼくの定年退職後の人生が、豊かな趣味で埋め尽くされていて、100パーセントシアワセなものだと錯覚したとしても無理からぬところだ。そうして、自分の「ツマラナイと感じている日々」と比べて、ああ、なんてオレは不幸なんだ、とため息をつくということになるのは当然といえば当然である。

 ぼくがカメラやレンズを買ったことは事実だし、それで写真を撮って楽しんでいることも事実だ。フェイスブックにアップしていることも、フィクションではない。けれども、フェイスブックの記事は、ぼくの生活のほんの断片に過ぎないのだから、厳密に言えば「フィクション」なのだ。

 倉敷の町の風情ある建物の写真をみて、こんな建物がずっと続いているんだと思って行ってみると、それはほんの町の一角に過ぎないことがわかって愕然とするなんてことと同じである。断片は美しいが、全体は同じ美しい断片の連続ではない。祭りは楽しいが、毎日が祭りであるわけではない。

 子どもの笑顔の写真はかわいいが、その子どもが一日中同じ笑顔でいるわけではない。雑草のクローズアップス写真を撮っているときは楽しいが、そんな時間は週に2時間もない。残りのほとんどは、何の変哲もない日常が広がっているだけなのだ。

 つまりは、フェイスブックにしろ、ミクシィにしろ、ブログにしろ、結局のところ「断片」でしかない以上、「フィクシン」なのである。行ってもいないイタリアに行ってきましたと言って、旅行パンフレットの写真を載せるなんてことだけがフィクションであるわけではないのだ。

 まあ、こうしたことを十分承知していても、やはり「比較は不幸のもと」であることは厳然たる真実である。一昨日だか一昨昨日だか忘れたが、ホットカーペットの上でゴロゴロしながら、日テレのワイドショーをダラダラ見ていたら、消費税増税を先延ばしにすべきかどうかとかいうことについて、自説を歯切れ良い言葉で述べているのが同級生で、「あ、五味だ!」って叫んだら(五味廣文・元金融庁長官)、家内が、こんなエライ人とあなたが同級生だなんて、横綱と十両が同じ土俵にあがってたようなものね、と言ったが、冗談じゃないよ、土俵が違うんだよ、い言いながら、「レールが違う」という昔書いたエッセイを思い出していた。

 比較は比較でも、こういうエライ同級生の場合は、あまりに違いすぎて嫉妬の対象にもなりはしないから、石川啄木みたいに、「友がみな我より偉くみゆる日よ花を買いきて妻と親しむ」なんて心境にもほど遠いわけだが、ほぼ同じレールを走っている同年代の人間の「ちょっとした幸福」の方が、確かにぼくらの心をかき乱すのかもしれない。さらにいえば、まだまだ可能性の豊かな若い人ほど、そうしたことに悩みがちなのだろう。

 フィクションであることを認識しつつ、素直な気持ちで「いいね」と言えれば、それがいちばんシアワセなことだ。それが自然にできる若い人たちに接して、偏屈なジジイも、ちょっと素直になりかかっている。


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