96 落語の楽しみ 

2012.10.20


 ここ数年、落語を意識的に聞いてきて、いったい誰がいちばん好きなのかと自分に問うてみるのだが、どうもこの、いっこうに一人にしぼれない。

 昨日、手持ちの落語のDVDで久しぶりに圓生の「鼠穴」と「百年目」を聞いた(見た)ら、やっぱりよかった。圓生の「圓生百席」というCDの全集を学校の図書館から借りてきてそのほとんどを聞いたのが、5年ほど前のことだったが、そのときは、圓生の独特の語り口がこっちにまでうつってしまって、いやどうも、これがまことに、困ったものであった。授業中なども、気づいてみると、圓生みたいなしゃべり方になってしまって、つい苦笑したが、それはたぶんこちらの勝手な思い込みで、生徒などにはちっとも知れることはなかったわけで、授業にさしさわることはなかったようだが。

 圓生の落語は、爆笑するという類のものではなくて、ただただその語り口に浸る快感とでもいったらいいのだろうか。いや、圓生だけではない。落語というものは、結局その語り口がすべてなのかもしれない。話の内容などは二の次で、ただただその落語家の繰り出す言葉のリズムに酔いしれるというものなのかもしれない。少なくともぼくはそういう聴き方をしているようだ。

 圓生とはまったく肌合いが異なるが、枝雀の語り口もまた独特で、これをマネできる人は誰もいないだろう。圓生にしろ、文楽にしろ、小さんにしろ、ぼくは有名どころの落語家をほとんどナマで見ていないが、この枝雀だけは、一度だけ横須賀での独演会で見ている。今からもう30年近く前になる。大きなホールだったが、満席で、会場がもう爆笑の渦と化していた。ぼくも死ぬほど笑った。

 枝雀はもう面白すぎて、あんまり聞くと疲れてしまうが、笑いたかったら枝雀のDVDに限る。それに枝雀の語り口は、関西弁だし、それにもまして独特過ぎるので、まかり間違っても気がついたら枝雀のしゃべり方になっていたというようなことはないので安心でもある。

 今活躍している人で、その語り口に酔うことができる落語家も多い。柳家喜多八を筆頭に、瀧川鯉昇、入船亭扇遊の3人。この3人は「睦会」と称して、横浜のにぎわい座でも年に3回やっているが、いつも客席は7割ほどしか埋まらない。「何とかして、一度満席にしたいんですが」と喜多八師匠は言っていたが、まあ、コアなファンがついているからいいんじゃなかろうか。第一いつも満席になったら、チケットとるのが大変だ。

 この喜多八師匠の弟子に柳家ろべえという二つ目の落語家がいる。まだ30代半ばだが、ここ1年ほどで、ぐんとうまくなってきた。楽しみである。このろべえさんを招いて、11月には、中1の生徒対象に授業時間を使って落語会を開くことになっている。さて、ろべえさんには何をやってもらおうかなんて考えるとワクワクする。こういう楽しみ方もできるのは、幸せというものだ。


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