94 納豆とプリン 

2012.10.6


 食わず嫌いということがあるが、これはいったいどういうことなのだろう。一度食べたらひどくまずくて、もう二度と食べたくないというのなら分かる。一度も食べたことがないのに、どうして「嫌い」になれるのだろうか。うまいかまずいかは食べてみなければ分からないではないか。

 なんていうのは理屈で、世の中には食わず嫌いはごく一般的に存在している。こんなことを言っているぼくも、「食わず嫌い」こそほとんどないけれど、飛行機は乗ったこともないくせに、怖いといって乗らない。乗ってみなければ怖いか怖くないかなんて分からないはずだが、やっぱり空に浮かんでいる飛行機とか、滑走路を離着陸する飛行機などを見ると、「あの中の自分」は想像したくない。

 飛行機の場合は、ある程度想像できる。しかし、食べ物の場合は、想像ができない。たぶんこんな味だろうと思って食べると、非常に裏切られるということがあるのが味である。

 次男の嫁は、アサリやシジミが食べられない。もちろん、アサリやシジミの汁物もダメだ。なぜかというと、子どものころ、学校から家に帰って、喉が渇いていたので冷蔵庫からペットボトルに入ったお茶を出して飲んだところ、それが何とアサリの汁だったというのだ。母親がお吸い物にでも使おうというので、ペットボトルに入れて冷蔵庫に保管していたらしいのだ。お茶だと思って飲んだら、アサリの汁だった、というのは「裏切られた」極致で、そのショックのほどはよく分かる。以来、彼女はアサリやシジミの味を拒否する体となってしまっというわけなのだ。

 裏切りは怖い。人間関係でも、「裏切られた!」という思いがいちばんたちわるく後をひく。しかし、この「裏切り」が逆に作用することもあるらしい。

 先日、義父の一周忌で高知に行ったおり、高知に住む家内の伯父およびその息子と一緒に会食をした。妻をすでになくした伯父は、息子の世話をうけて暮らしているのだが、その息子が、「オヤジの朝食はこんな感じですよ。」と言って、iPhoneで朝食の写真を見せてくれた。見ると、画面の隅にチラリと納豆が見えた。おや、土佐の人も納豆なんか食べるんだと意外に思って、伯父さんは納豆を食べるんですかと聞くと、息子の方が笑って答えた。

 「いやあ、今年になってからかなあ、急に納豆が好きになっちゃってね。何でも、夜中に腹が減って、冷蔵庫を開けたらしいんですよ。そしたら、ぼくが食べるために買っておいた納豆があってね、それをプリンと間違えて食べちゃったんだって。」「うわ〜、そりゃ大変だ。まずかったでしょうねえ。」「いや、それがそうじゃないんです。うまかったって言うんですよ。それからもう、毎日納豆を食べ続けているんです。母が生きていた頃は、納豆を家におくのさえ許さなかったのにねえ。」

 そんなことってあるんだろうか。納豆を家におくのさえ嫌がっていた人が、88歳にもなって、プリンと間違えて食べたらうまかったなんて……。第一、プリンと間違えたというのだから、おそらく納豆はカップ入りのもので、しかも醤油も入っておらず、練ってもいなかったはずだ。そんなの納豆好きのぼくが食べても絶対にうまいなんて思わないだろう。それなのに、生粋の土佐の人である伯父がうまいと思ったなんて。

 伯父はそんな話を楽しそうにニコニコしながら聞いていたが、「洋三さん、納豆というのはうまいもんやねえ。なんでもっと早く食べなかったんやろうなあと思いますよ。」としみじみと語った。人間というものは、いくつになっても変わっていくことができるということだろう。

 ああぼくもいつの日か、新幹線と間違えて飛行機に乗ってしまい、それが意外にもちっとも怖くないばかりか実に快適で、「なんでもっと早く乗らなかったんだろうねえ。」なんて語るときがくるのだろうか。


Home | Index | Back | Next